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ヘーゲル

ドイツ観念論の哲学者。近代哲学の完成者。

ヘーゲル

ヘーゲル。

画像はパブリックドメイン。

精神の成長

ヘーゲルは、この世界全体の発展を「世界精神」だと考えて、その精神がいかにして発展をしていくかを考えた。

後日注記:ヘーゲルは、精神と意識の成長と変転を考える。自我が成長し、世界と対面し、根源的かつ本質的に考えながら、世界を見つめ、自分の愚かさを克服し、「真実」を知っていきながら、心と世界を照らしわせて、真理へと目覚めていく過程、そうした哲学をヘーゲルは考えた。

弁証法

ヘーゲルは弁証法で有名だが、弁証法は、「意見Aに対して批判的なBがあり、それが統合されてCが出来て、その上でCに対して批判的なDがあり、それが続いていく」と言うものだ。

ヘーゲルは弁証法を歴史に応用し、精神の段階を「合一から絶対に至る」ものとした。

歴史

ヘーゲルは、歴史を弁証法的な、絶対精神へと向かっていく世界精神の目覚めだと考えた。

精神

ヘーゲルの精神論は、自己意識が喪失や確執とともに大人になっていき、共同性に目覚め、啓蒙や理性主義へと発展して、最後は道徳的良心と言う「絶対知」に到達する、と言うものだ。

絶対主義的国家論

ヘーゲルの国家論では、絶対主義のプロイセンを最終的な理想・終着点だと考える。

その思想は全体主義的で、集団は国家のためにあり、集団の全員より国家の方が大きい、とするものだが、当時はそれが進んだ考え方だった。

エゴ(自我)の絶対的段階

僕は、ヘーゲルは「エゴ」すなわち「自我」の絶対的段階と変転の過程を書きたかったのだと思います。

ヘーゲルは、「自己意識」から始まり、精神の成長と歴史を通じて「徳の騎士」となったり「心胸の法則」を作ったりし、最後には絶対知である「良心」に行きつきます。

ヘーゲルは、まさにエゴがどのように変転していくか、ということを、歴史になぞらえて、絶対過程にしたのです。

自分が形作られていく過程

僕は、ヘーゲルは「自分が形作られていく過程」について書きたかったのではないかと思う。

人間は、人生の中でさまざまな不安や恐れを抱き、そこから人々に対して行動し望むようになるが、そうした不安や恐れは「アイデンティティの喪失」であり、人々が相互に攻撃や争いを行うのは、「アイデンティティが欠如しているから」が理由である。

そんな中でも、その人はさまざまな経験を積んで、この世界のアイデンティティを「理想と現実を知ることから自らアイデンティティを構築する」ことを目指すようになる。

そして、さまざまな「発想」が体験と理性の経験から「確信」へと変わっていく。それが、そのまま「高い境地」へと向かって、まっすぐに歩んでいく。

ヘーゲルは、アイデンティティが欠如した人間を想定して、その人間がどのような段階と経緯を経て高みへと至るのか、その上でその人間はこの世界をどのような世界であるとみなすのか、ということを書きたかったのではないかと思う。まさに、「自分の精神が形作られていく過程」を書いたのである。

そう、ヘーゲルは「自由という社会の理想の中で自らがどのように考えるのか」という、「社会に対しての自分の行動論・行動史」を書いただけである。そこに、「この世界を全て理解するプロセス」がある。それはまるで「気付きと驚きが疑いから確信へと変わっていく過程」であると言える。

ヘーゲルの精神論(自己意識)

超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書)を参考に執筆・編集して引用しました。

ヘーゲルの精神論は、以下のような段階を辿る。

自己意識

自己意識の本質は次の3つの契機に分けられる。

1.はじめの直接的な「我」。

2.他を「否定」して自己を「同一性」として維持する、「欲望」としての自我。

3.自分が「自我」として、他者たちとの関係のうちにあることを対象化している「自己意識」。

相互承認

自己意識は、もう一つの自己意識である他人と向き合う時、相互に承認しあう必要にせまられる。

人間は単なる「もの」と向き合っている時は、常に絶対的な「主体」で居られる。しかし、他人が自分と同じ自己意識である時は、関係は相互的であるから、絶対的な「主体性」は持続できない。

だから自己意識は、他者関係の中では、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、「自己喪失」の状態にある。そこで本気で「自己自身」たろうとすれば、相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る態度をとることになる。

主と奴

自己意識とは、純粋なエゴ、自分が世界の主人公たろうとする存在である。だから、そこにもう一人の自己意識、他者が現れると、それは基本的に自分にとって否定的な存在となる。

生死を賭けた戦いの末に人間は主と奴に分かれる。だが、主は奴の労働に依存しており、主に服従しながらにおいてもものに実際に働きかける力を持つ奴の方に、本来の自立性の契機があることがやがて明らかになる。

ストア主義

ストア主義は、現実に対する「内面的」で消極的な否定の態度。

ストア主義は、現実に直面せず、自己を絶対的に自足したものと考える点で、主に近い。

スケプシス主義

スケプシス主義は、現実に対する自覚的、積極的な否定の態度。

スケプシス主義は、現実な服従にもかかわらず、内心の反抗の自由を確保する試みという点で奴に当てはまる。

不幸な意識

「不幸の意識」は、ストア主義やスケプシス主義とはちがって、内的あるいは論理的な「否定性」に依拠して自分の立場を承認させようとするのではなく、いわば何らかの「自己理想」を見出し、そこに「絶対的なもの」を想定して、強くこれを求める、という意識経験の類型。

たとえば、青年の自己意識の「思想」を「キリスト教」だとすると、彼は「キリスト」という人間にある「不変」なものの「体現」を見ている。そして自分をふくめ一切の存在がこの「絶対者」に根拠をおっていると考える。

ヘーゲルの精神論(観察する理性)

超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書)を参考に執筆・編集して引用しました。

理性

理性とは、

1.自己の意志と、社会の他の人々の意志とが調和しうると確信している意識であり、

2.同時に、自己と現実世界とが深くつながっていると確信している意識である。

不幸の意識は、自らを外部放棄して教会へと委ねる。教会という権威から与えられる意識は、近代において教会という権威が取り払われる時、みずから「だれもが認める正義・真理」を見出して、それを実現しようとする意志が生まれてくる。これが近代における「理性」である。

観察する理性

観察する理性は、自然の世界を観察して、そこに合理的な秩序を見出そうとする。

自然の観察

まず自然を観察し、自然の中に自己を見出そうとする。

理性自身にとってこれは「ものの本質」を見出そうとする試みだが、「われわれ」にとっては、理性が無自覚なままに「理性自身の本質」を見出している。

理性は記述→分類→法則という仕方で自然観察をより高度化していくが、これは意識における感覚→知覚→悟性の進展を再びやり直している。

意識はものを何かの固定的な規定によって分類することが不可能であることを知り、「法則と概念」を求めていく。

有機体の観察

実験し法則を見出そうとする観察する理性は、結局、「固定的で自己同一的なものと考えられていたもの」から、互いに関係し合い運動する、無限性としての「概念」を取り出している。この無限性は「有機物は環境に作用される」というものであり、有機物の本質は「自己目的」であることである。

次に、観察する理性は有機物をいくつかの契機の関係(内なるものと外なるもの)として理解しようとする。

自然全体の観察

また続いて自然全体を理解しようとする。普遍的な生命は、個別的な生物に分かれつつ、相互に交わり合って普遍的なものを生み出す。また、「有機的自然は歴史をもたない」。

心理学的法則

次に、観察する理性は、具体的な行為する意識を観察する「心理学」に移行する。心理学はまず最初に精神のさまざまな様態を見出す。さまざまの能力、傾向、激情を心理学は見出す。精神のうちにはかくも多様で異質なものが共存できるのか、と驚く。そして、これらの多様な能力や特質はどのように生まれたのかと考え、理性は「環境が個人に影響を与える」という法則を主張する。しかしながら、環境と個人をまったく別のものと切り離した上で、一方的な影響関係を論じるのは間違っている。個人は環境に自己を適合させることもできるが、環境を変革する能動的な存在でもあるからである。

ヘーゲルの精神論(行為する理性)

超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書)を参考に執筆・編集して引用しました。

行為する理性

行為する理性は、社会の中に自己の信ずる理性的な秩序を実現しようとする。

現実の他者との関係の中で、他人からの承認を得ようと行為する意識。

自己意識は、「ものを自己として、また自己をものとして」見出した。これ以後新たに現れてくる対象は、自己意識から自立していながらも自分にとって疎遠なものではないような対象、すなわち「他の自己意識」となる。そして自己意識は、この他の自己意識から自分が「承認」されるはずだ、と確信している。

この承認によって、自己意識は「精神」となる。

行為する理性は、最初は、個別的な自己を相手に直接承認させようとする姿勢からスタートするが、次第に普遍的なものを意志するようになり、最終的には精神というあり方を自覚していく。つまり、国家や家族のような社会制度が個々人を生かす「精神的な本質」であり自分たちの「実体」であることを自覚するところまで進んでいく。

人倫

行為する理性は人倫の世界を作る。

人倫の国とは、古代ギリシャのポリスのこと。人倫の国では、

1.個々の自己意識は承認し合っており、

2.さらに、個人は全体のために働き、全体もまた個々人を支えるという相互性が成り立っている。そして

3.そこでの習俗と掟は、個々人にとって疎遠なものではなく、むしろ個々人の意志の表現となっている。

このようにして「ひとつの自由な民族のうちに、理性は真実態において現実化されている」。理性とは「あらゆる実在であるという確信」だったが、この確信が実現された具体的な形態こそが、人倫の国である。

行為する理性の経験していく歩みは、「人倫的実体」を目標としそれを達成しようとする歩みである。

行為する理性の段階

行為する理性はつぎのような段階を通っていくことになる。

1.最初は自己意識は、個別的な私を個別的な他者のうちに直接に求めようとする。すなわち恋愛をする。―快楽と必然性

2.つぎに自己意識は、普遍的な法則を求め実現しようとする。具体的には、社会の今までの掟は人間的な心胸を欠いていると考え、世直しを試みる。しかし自己意識は、自分のめざすものが本当に普遍性があるかどうか検証せず勝手にあると思い込んでいるため、この世直しは人々に支持されない。―心胸の法則

3.つぎに、自己意識は、普遍的な善は自分の個人的な欲望を犠牲にすることによってのみ実現されうると考え、徳の騎士となってふたたび世直しに挑む。―徳と世間

快楽と必然性

自己意識は、「個別的な自分」こそがリアルだと考え、この自分を他の自己意識のうちに直観しようとする。すなわち、ある他者をわがものにしようとする。

この態度は「欲望」に似ているが、相手を食い尽くそうとするのではなく、対象である恋する相手のもつ「他的存在という形式」を否定しようとする。そして、「快楽の享受」つまり「両方の自立的な自己意識を直観すること」へと至る。

しかしながら、これは自分だけがリアルだと思っていたこれまでの見方を失わせることになる。なぜなら、「自分自身と他の自己意識との統一」である「普遍的なもの」(切っても切れない絆や子供のこと)が生まれてくるからである。

心胸の法則

この自己意識は、自分の中に普遍的なもの、つまり法則を持つことを知っている。この法則は、この個別的な自分の心胸の中に直接無媒介に存在しているものであり、それゆえ「心胸の法則」と呼ばれる。

この自己意識にとっては、現実は「法則と個別性の矛盾」であり、現実の法則は「必然性」としてもろもろの個人を抑圧する、と自己意識は考え、この必然性を撤廃しようとする。

彼は己れ自身の「卓越せる本質」を発揮し、「人類の福祉」を生み出そうとする。しかし、心胸の法則における個別性と普遍性の統一はきわめて素朴なものでしかない。

実際にこの個人が自分の心胸の法則を実現してみると、この法則は自分から逃れ去り、疎遠なものとなってしまう。

そこでこの個人は錯乱する。この秩序の中に彼は自分を認めることはできないが、しかし同時に、この秩序を作り出したのは自分であって、この現実を認めなければならない。彼は自己の企てる世直しに他の人々も賛同してくれるだろうと思っていたが、彼が実現しようとしたものは彼の心胸にすぎず、他人たちは決してそこに自分の心胸を見出しはしない。

徳の騎士

徳は、自分の意識においても、世間の人々においても、個体性(エゴイズム)は撤廃されるべきものだと言う。「それ自体として真でありかつ善であるもの」のもとへみずからを訓練し、最終的には全人格を犠牲にしなくてはならないと言う。そうすることで、個体性は世間の側においても根絶され、善が実現するはずだ、と徳は考える。

対する「世間」においては、徳とは逆に個体性が本質とされ、「それ自体として真かつ善であるもの」は従属させられる。社会秩序は、個人のエゴイズムによって利用され、顚倒される。もちろん、世間の中にも「安らえる普遍者」という契機はあるが、それは「内的本質」、つまり隠れた潜在的なものとしてあるだけである。

普遍的なものを自分のために顚倒する個体性を撤廃しさえすれば、おのずと内的本質が出現してくるはずだ、と徳は考えている。

こうして徳は世直しを目指すが、徳は決してその成果を享受できない。なぜなら、善が実現していないからこそ徳の意識は存在しうるのであって、善が実現すれば徳の意識は消滅することになるからである。

戦いのさいの武器は戦士たちの本質でもある。抽象的・普遍的な善である天賦の才や能力が、ここでの武器となる。そして、徳と世間のどちらも同じ武器を用いることになる。

しかし、戦いの勝利は世間の勝利に終わる。なぜなら、徳の戦いは決して真剣なものとはなり得ないからである。

1.徳が求める「それ自体として善なるもの」は、世間の内的本質である以上、それはおのずと実現していくはずだ、と徳は思っている。徳は戦いを「八百長」のように見なしている。

2.徳は善なるものを保全し実現するために戦っているのに、戦いにおいては、その善なるものを消耗や毀損の危険にさらすことになる。

3.世間の側が戦いにおいて差し出してくる天賦や能力は、徳の信じる抽象的な善とは違って、「個体性によって生気づけられた普遍的なもの」であり、「現実に善なるもの」である。徳は善のために世間に戦いをしかけたが、じつは相手の方に現実的な善があった。これでは戦いにならず、むしろ相手を守らなければならないことになってしまう。

こうして徳は敗北し、徳は「世間は見た目ほど悪いものではない」ということを学ぶ。

事そのもの

「絶対に実在的だと確信している個人」は、まず「根源的に限定された自然」(なんらかの限定された生得の素質を持つ者)として登場してくる。しかしこれは、彼の行為を制限することにはならないはずである。なぜなら、この限定は「透明な普遍的な場面」であって、その場面のなかで個人は自由に自分を展開していくことができるからである。

この根源的な自然である個体性が行為することによって、行為の中に3つの契機の区別がでてくる。すなわち、最初に意識のなかにある「目的」と、これを実現し現実に移行させることである「手段」と、行為者から外にでた「作品」である。そして、どの契機の間にも、ズレが生じることはない。

ここで、自分の作品を他者と比較することもない。「すべては等しく、ある個人の為すことであり自己表現であるから、したがってすべては善いのである」「個人は己れにおいてただ悦びだけを体験しうるということになる」。

また、作品に満足できず、他者からの反撃をうけて「消失」することもある。しかしながら、確かに個々の作品は過ぎゆくもの、偶然的なものであるとしても、それらを貫いて持続するものがある。これが「事そのもの」である。事そのものとは「持続するもの」であり、「行為と存在の統一」たる「真実の作品」であり、自分のものだが自分から自由な対象性をもつものである。

事そのものにおいて、自己意識はおのれの「実体」を意識するに至った。しかしその自覚はまだ不十分である。意識が事そのものを「真なるもの」とみなすとき、その意識は「誠実な意識」と呼ばれるが、実はそれはまったく誠実ではない。この意識は事そのものを「単純な本質」として捉え、これを自分の行為のどの契機にもあてはまる単なる「述語」として扱うからである。

1.「誠実な意識」の欺瞞。行為には目的、手段、現実といった諸契機があるが、意識がそのどれかにおいて満足し得ない時、他の契機を取り上げて「これこそが事そのものだ」と語ることによって、満足を得ようとする場合がある。誠実な意識は決して誠実ではない。

2.「欺しあいの遊戯」。行為には、事そのものを目指そうとする契機と、自分が認められたいという契機の二つがある。この二つは不可分なものだが、個人はこの二つを使い分けて、自分をも他人をも欺瞞する。そこに「諸個人の欺しあいの遊戯」が成り立ってくる。

意識はこのような経験を経て、普遍的な意義あることをめざすという「自体」の契機も、自分が行為することで認められたいという「対自」の契機も、ともに本質的なものであるということを経験し、そうすることによって、「事そのものの本質がなんであるか」をも経験することになる。

ヘーゲルの歴史論

ヘーゲル『精神現象学』(その3) - 苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説)を参考に執筆しました。

古代ギリシャ

「人間のおきて」と「神々のおきて」との対立。

古代ローマ

個人が個人として「権利」を持っている。個人と共同体との素朴な合一の段階は終わっている。だが、ローマ法において、本当に自由なのは皇帝1人だけだ。

教養と信仰

教養は、「自分から疎遠になった精神」であり、自分のことを客観的に見られる精神のこと。全てが空しくなったとき、人は信仰に救いを求める。だが既に自己意識に到達している精神は、それが自分の作り出したものだということも知っている。

啓蒙と有用性

啓蒙が登場する。信仰などという非理性的なものに頼らず、徹底的に理性的に考えよとする。信仰は転落する。啓蒙は精神の帝王に上り詰め、一切は「有用性」なのだという。信仰は必要なく、すべては「自分にとってどのように有用か」と考えるべきとする。

絶対自由

有用性で考えるようになった啓蒙は、やがて神や王は、決して絶対的な存在ではないと気付く。これを打ち倒す必要がある。そうしてフランス革命が起こる。だが、それは絶対自由の精神に行き着く。一切は自分のためにあるのだから、それが主張するのは絶対自由であり、それは恐怖政治だ。

道徳性

そうして破壊の狂暴を経験し、精神は道徳性に目覚める。自らの考えは、他者にとっても本当に普遍的か。道徳性は、そのように内省する。

神の要請

しだいに、正しいことと幸福とが一致するように、欲望や衝動とも一致するように、神の存在を要請する。

良心

精神は良心の境地、具体的な行動を通して「事そのもの」を目指して精神の境位に到達する。

行動する良心と批評する良心

行動する良心は、「事そのもの」を目指して実際に行動する、そうした良心だが、ここに批評する良心が批判的に現れる。

絶対知

宗教は、精神の本質を理解した境位である。だがそれは本質を神という概念で表現する。他方で、これを概念的に把握する、絶対知に至る。

ヘーゲルの道徳論

超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書)を参考に執筆・引用しました。

徳福の一致

“「道徳的意識」では、理性によって何が正しいかを判断し、その「正しいこと」に義務として従うことが自由ということの本質であり、したがって人間の本質だとみなされる。だが、「自然の法則」は人間の「自由の法則」とは別ものだから、道徳的行為が、幸福に一致するという保証は存在しない。つまり「徳福の一致」は原理的に偶然的なものでしかない。

道徳思想はさまざまな問題を持っている。それはまず、「正しい行為」を自分で「義務」として規定しておきながら、その結果として道徳的な人間が必ずしも幸福になれないことに、苦情を申し立てる。ここには明らかな矛盾がある。

道徳における「純粋な義務」の思想は、本来、「正しいこと」を自分の意志によって行う、という自己の内的な納得だけを本質としていたはずだ。しかし、一方で「道徳」は、正しさ(徳)が「幸福」につながるべきことを要求するのだ。言いかえれば、内的な納得だけでなく、その「成果」についての満足と享受を求めているのである。

だが、さらに言えば、「道徳」は「正しさ」を意志し行為するという自己納得に本来の動機を見出していたのだから、この道徳的な心意それ自体に、「享受」(自己納得の満足)の側面が存在していたことが分かる。だから、じつは暗黙のうちに、道徳と自然(人間の感情)との一致が前提されていたのだ。

「道徳」思想は、「道徳」(自由)と「自然」とを、べつべつの領域として切り離していたはずなのに、じつのところは、「道徳的行為」が「自然」(感情や享受)とつながる"べき"だ、と考えているのだ。このような考えは、現実についての思想ではなく、現実がかくあってほしいという要請の思考にすぎない。つまり『この調和は要請されているのである』

また、道徳思想は、この「要請」は決して意識が恣意的に作りだした表層ではなく、「道徳性」の本質にもとづくものであり、「理性の必然的な欲求」であると主張する。しかし実際には、ここにあるのは、純粋な「普遍性」(理想)と「個別意識」(現実)とが、いかなる条件で一致するかを洞察する思想ではなく、この統一(徳と幸福の一致)が"存在してほしい"という単なる欲求なのである。”

道徳・良心とおきて

“「道徳」にとっては、一つの理想化された「絶対的なほんとう」がその「純粋義務」となっていた。しかし「良心」では、そのつど生じる「この善の義務に従うことは正しい」という自己確信こそが本質的なものである。『今や自己のためにあるものがおきてなのであって、おきてのために自己があるのではない』

断言

“「良心」は、自己の「正しさ」を支える根拠として、「断言」、つまり「言葉」によって自分の意図を表現するということという手だてを見出す。”

宗教

ヘーゲルは宗教を「自然宗教」「芸術宗教」そしてこの二つが統合されて、精神的思想として現れてくる「啓示宗教」とする。

絶対知と契機・精神の無限性

ヘーゲルは「直接性・個別性の契機」「他との関連・限定態の契機」「本質・普遍態の契機」の三契機を統一して、「精神の無限性」が現れることを知る。

法の哲学

ヘーゲルは、法の哲学で人間の関係する「社会」について考える。ここでは、原理として「自由」がある。

読まずに死ねない哲学名著50冊」を参考に執筆・引用しました。

「よさ」と人格の相互承認

“ヘーゲルは「自由」が、初めは意志の内側に現れ、それが次第に他者との関係性のうちで“実質化”していくと考える。”

“「欲求を抑えることが自由の条件ではない。大事なのは、どの欲求が本当に『よい』ものなのか吟味し、理解したうえで、自分にとっての『よさ』を他者と分かち合うことにある。各人が社会のうちで、それぞれの『よさ』を享受しつつ、それを他者と相互承認できるような状態が自由という理念の本質だ」”

“ヘーゲルによると、私たちの欲求はさしあたり、衝動としてわきあがってくる「恣意」にすぎない。恣意は主観的であり、まだ客観的なものではない。しかし私たちの意志は、恣意を反省的に捉え、普遍的な観点から吟味することで、その恣意を客観的なものへと高めることができる。そうした普遍的な観点を与えてくれる条件をヘーゲルは「教養」と呼ぶ。”

教養は、共同体における「よさ」が多様なものであることを教える。各人がさまざまな「よさ」を求め、それを実質化していくところに自由の条件がある。教養がもたらすこうした知恵は、各人に、他者が自分と同じく「よさ」を求める存在であるということを相互に承認することを求める。こうしたことを、ヘーゲルは「人格の相互承認」という概念によって表現する。”

「よさ」の制度における実現

“ヘーゲル的な教養は、私たちに「よさ」の多様性を教え、各人がそれぞれの「よさ」を追求するためには、人格の相互承認が必要であることを教える。

だが、現実世界に目を向けると、そうした理念が実際には実現されていないことに気づく。理念レベルの正しさはわかった。しかし現実はそこからあまりに離れている。そうした了解に達して「普遍的な正しさ」を自覚的に求めるようになった意志のあり方を、ヘーゲルは「道徳」と呼ぶ。”

“各人が自分にとっての「よさ」をつかみとり、それを他者と分かち合うことで自由を実感するためには、単に理想の状態を思い描いているだけでは足りない。

では何が必要なのか。

それは現実的条件、すなわち社会制度である。”

その他

生の本質

ヘーゲルは、「合一と分離の合一」が生の本質をなすと考える。

【第265回】『ヘーゲルとその時代』(権佐武志、岩波書店、2013年)を参考に執筆しました。)

ヘーゲルの言葉

ヘーゲルの言葉

ヘーゲルの言葉1

「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』(竹田青嗣・西研)」より引用。

“言いかえると、魂(ゼーレ)が己れの本性によってあらかじめ設けられている駅々としての己れの一連の形態を遍歴してゆき、己れ自身をあますところなく完全に経験し、己れが本来己れ自身においてなんであるかについての知に到達して、精神(ガイスト)にまで純化させられるさいの魂の道程であると、この叙述はみなされることができるのである”―ヘーゲル

ヘーゲルの言葉2

“事そのものは、(1)その存在が、個別的な個人の行為でありすべての個人の行為であるような、一つの本質(実在)であり、(2)その行為がただちに他に対してある、すなわち一つの事であり、この事は、万人のまた各人の行為としてある。さらに(3)あらゆる本質の本質であり、精神的な本質であるような本質、である”―ヘーゲル

ヘーゲルの言葉3

“したがって、この断言が断言しているのは、意識は自分の信念が本質であることについて信念をもっているということである”
“この断言という言明が、それ自身において自己の特殊性という形式を撤廃する所以のものであり、自己は言明することにおいて自己にとって必然的な必要な普遍性を承認している”
“美しい魂と呼ばれるひとつの不幸な魂の光輝は内面において次第に消え失せて行き、そうしてこの魂は空中に失せる形のさだかでない靄のようになって消え去るのである”―ヘーゲル

著作

「精神現象学」、「法の哲学」、など。