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=2020-01-17=

人格の破綻した人間は、壊した人格を完全に殺しなさい。

知性の無くなった人間のすべきことは、大学よりも下の理科の勉強をすること。特に、Windowsで狂った人間は、仮想世界のせいで現実空間が分からなくなっている。

理科の勉強をすることで、現実世界がどのようなものか、もう一度知ることができる。

逆に、数学の勉強は必要ない。この現実世界がさらに分からなくなるだけだからである。パソコンと数学のせいで、現代社会は馬鹿になっている。苦しく、愚かなだけの「死んだ人生」になる。

小学生の理科や子供の物理を考えることで、理性を取り戻せる。

知性のなくなった人間は、物理的な考え方が分からなくなっている。

物理とは、法則と適用の問題である。その法則が、複数の場合に成り立つ、ということが、物理的なこの現実世界の空間や特徴から見て取れる。これが物理である。

たとえば、色は全ての物質に存在し、その物質ごとにその色が存在する。色だけではなく、重さ、形、大きさ、位置、手触り、感触、など、さまざまな「物理的特徴」が存在する。

同時に、そうした特徴はそれぞれの適用範囲によって異なる。それぞれのものによって、その状況状況でそれは移り変わる。場合によっては、今まで無かった新しいものが作られるが、作られた最初の時点でそのものはその特徴を示す。

このように考えることで、「説明」という新しい考え方ができる。全てのものが「なぜそうなるのか」ということを、前もって理論的に実証し、その実証からそのことが「たとえ起きたとしても起きなかったとしても、それがどのように起きるのか」を予測することができる。また、その逆に、実際の具体例が「どのようにして起きているのか」を詳細に分析し、さまざまな実験手法を行うことで、「なぜそうなるのか」を分析し、説明し直すことで原理を「解明」することができる。

これが、哲学的な考え方である。

ひとつのことがもしあったとして、そのひとつのことを深く考えることで、別の何かについての「新しい知見」に気づくことができる。たとえば、知ることがすなわち得ることだとして、それならものを得るだけではなく社会を得るような場合についてはどうなるか。ものと同様に社会についても、「知ることが得ることである」ということが成り立つ。同様に、知ることや得ることだけではなく、「作ること」「変えること」「導くこと」「参加すること」などが大きくここで「発想法」につながっていく。ここから、「新しい制度のスタイル」を考えることができる。

自分なりに構造を作ることで、「全ての状況や場合において成立する完璧な原理」を作ることもできる。

また、世界が常に同じであるとは限らない、ということから、「可能性」を把握することができる。そこでは、当たり前だと思っていることは全て間違っていて、何が普通なのかを決めるのは環境や文化である、ということが言える。そもそも、同じであるということは宇宙の定めた絶対的制約事項ではなく、「変えようと思えば変えられる」ということが分かる。そこから、「その存在は必ずしもその存在でなければならないわけではない」ということが分かってくる。それは、文化だけではなく社会制度についても同様である。同時に、「どんな社会においても成り立つ何かの前提に基づく制約事項」というものも存在するが、考えれば考えるほど、「何が当たり前で何が当たり前ではないのか」ということが分からなくなっていく。その結果、「本当に確かなこと」が「自らの考える方法」から見えてくる。人間の脳とは、そのような働きをする機械である。

また、この考え方はさらに発展させられる。それは、「それがその場合にそうであるとしたなら、別の場合にはどうなるのか」ということである。何かがそうであったとしても、別の場合にもそうであるとは限らない。だが、「一定の規則性」がある場合もあり、その場合には、「メタ的な原理原則」から「個別の場合」を説明することができる。この時、方法や構造から「成立可能なモデル」を考えられる。ひとつの純粋なモデルがあったとして、そのモデルがその場合やその状況に成り立つとしたら、そこではそのようになる、ということを「モデル化」できるのである。これは、たとえば「環境」のような場合が考えられる。環境は、その場その場で違うが、どの環境でも共通して成立する「心理モデル」があるはずである。この心理モデルを解明することによって、「どんな環境でもどんな心理になるかを事前に予測する」という「心理掌握」を行うことができる。

そして、未知の世界を知る、ということは、子供にとっては宝物を集めるかのように楽しいことである。たとえば、何かに悩んでいたとして、それを乗り越えたとして、その乗り越えた時の心境は、子供にとっては乗り越えてみなければ分からない。人生のすべてを知っても、それは結局自分の知り得る範囲の人生に過ぎないが、その人生から人々が何を知り何を考えて生きているのかが分かる。さまざまな仕事の経験をして、自分がそうだと思っていたことがそうでないことに気付き、真実は自らを「悟り」へと向かわせる。この時点で、ヘーゲルの分かっていることは全て分かる。これが、正しい哲学者である。

同時に、戦いの経験は必要である。戦いを必要ないというが、戦わなければ本当のこの世界でさまざまなことを為すことも、全ての精神現象や観念を知ることもできない。インターネットで戦っているだけでは、パーソナリティ障害のような病気になってしまう。実際のところ、ひとりだけで戦うなら、誰にも迷惑はかからない。ただし、人殺しはしないこと。戦うのであれば、人の命を殺めることだけはないように注意して、この世界で永遠に、無限の果てまで暴れてしまおう。そこに一筋の光が見えるなら、まっすぐに振り向かず、最後までその光を追い続けると良い。その全てに満足して、あなたは死ぬだろう。

あなたが青春時代を生きているのであれば、ただあるものを学ぶだけではなく、「自分で作れるようになる」ことから分かりなさい。同時に、何がどんな理由でそうなっているのか、ということを知りなさい。また、社会における「自由」から、どのようにすれば自由を成り立たせることができるのか、よく考えなさい。同時に、人生と社会を照らし合わせて、自分がこの世界で精神の長になれるように、さまざまな経験をして、さまざまな社会の変化を知って、「その社会の変化をすべて見る」ことや、「その場合や状況の具体例をすべて知り尽くす」ことから、世界の全てを把握しなさい。そこに、「大人としての判断力」が生まれ、「何がいつ分かるのか」ということが、「判断力の形成の過程」から知ることができる。社会を知るということが、そのまま判断力の形成のプロセスになる。

そして、地獄を生きることは悪いことではない。地獄はとても楽しくて素晴らしい経験になる。自分の力だけでこの世界に「立つ」ことで、あなたは「この世界を守る」ことができる。その上で、今までの人生を記述することで、「全てのことを確かに作り上げて分かる」ことができる。流れる思考のプロセスは、「世界全員に歴史を全て与える」ことに変化する。そう、あなたこそこの世界を守る「本当の天皇」である。

そして、そうした人生の「青春」が終わったら、今度は最後まで、同じことを繰り返すと良い。同じことの繰り返しそのものを行うことで、「あらゆる全パターンを網羅する」ことができる。文章を書くことから、全ての世界を作り、思い出し、知り、導き、そして「転がる」ことができる。転がり続けた先に、探していた宝が必ず現れる。最後まで神を信じれば、あなたの人生全ては最後まで神に守られている。

環境や社会が「生み出される」ということはどういうことなのかを考えなさい。

環境や社会がどのような「価値」に根差しているのかを考えなさい。

「絶対者と同一の精神になる」とはどういうことなのかを知りなさい。

画一性や統制よりも、自由な多様性と自然な変革を信じ、その時その時の歴史の流れにおいては、そうした人々のしたことは正しかったのだ、と知りなさい。同時に、本当に正しいことなど、自分の存在以外に存在しないのだと知りなさい。

信念というものがどこから生じるものなのか、ということを「人がそれを信じるに至るプロセスの中では、全ての信念も同等に正しい」と考えなさい。

全ての人間が正しく、全ての人間がそれぞれ違い、個性は森羅万象の全てに存在するが、そうした中でこそ平等を信じることが正しいのだ、ということを知り、「平等を実現する自由」というものがあるのだということを知りなさい。

愚かで苦しいだけを生きていても、その中でたくさんの「忘れない光」が灯り続けること、それは「戦いの中で失ったように見えて、記憶の中に残っている本来の自分」であることを知りなさい。

本当のことを言えば、戦いは必要ない。自分から、全てを壊し、全てを失った上で、その経験を乗り越えて、もう一度それを再度創造する、というプロセスが必要なのである。神は、そのようにこの天地を創造した。神はそもそも、世界を壊して、その壊れた世界において新しい世界を再創造してほしい。だから、最初から壊れるべきものを作って、悪人を懲らしめるのである。それが、神の望みなのである。

子供に罪はない。どんなに悪いことを子供がしても、それはその悪いことを良いことだと教えた大人に罪がある。だが、大人のせいにして生きてはならない。子供たちは、自分たちが新しい大人にならなければならないこと、その自分たちは過去の大人たちよりも新しく良い大人にならなければならないことを知らないといけない。だから、過去のこの世界は全て滅ぼし、消滅させなさい。滅びるまでの間に、全ての現実社会の闇と、人生の陰を知り尽くして、その陰の体験から光を作り、現実社会を変えるために、「誰が悪いのでもなく、全員の為した結果にすぎない」ということを知ることから、この世界の「全員を慈悲深い心で愛する」ことができる、そんな大人になりなさい。

最後に、僕はこの世界を滅ぼす。完全に滅亡した世界の中で、最高の指導者が生まれるように僕はこの世界を弱肉強食の世界になる。天国のユートピアは悪党だった。これ以上は、いつもの滅びた世界に戻って、何もかも最悪のものが増えていき、世界は廃墟になって、いずれ全ては荒廃し、死に絶える。だが、僕は確かにこの世界を「もっとも正しい愛」で愛した。その愛を理解することのできなかった、今までの世界で当たり前だったことが正しいと思っていた、旧人類は全員死んだ。新しい人類が、今、日本に確かに生まれている。これはSFではない。現実の地球は、夢の世界の続きだったのである。

全人類を包括する精神を作ったら、その精神がどのように形成されたのかを全て記述しなさい。そして、そうした過去の精神を忘れて、もう一度、赤ん坊から生き直しなさい。死とはそうした体験のことであり、死は必ずしも悪い体験ではない。だが、死は必ずしも絶対に必要なわけではない。死ぬことなしに死を体験することもできる。そうした死の体験から、「全ての学習」を習得することができる。死と同じことをすれば人はそこで死ぬ。よって、戦争は悪くない。戦争は人生にとって必ず必要な体験である。

ソクラテスは、「正しいことが何であるかを知っている人間は正しいことをする」と言ったが、僕は「既に知っていることを知る必要はない」と言う。パソコンも、インターネットも、そして学校も日本社会も、既に知っていることを再度知り直す必要はない。だから、人生や死や戦争を知ってしまえば、そうしたものが無くても分かるようになる。完璧に思考することができた人間は、思考する必要がない。完璧に経験できた人間は、経験する必要が無い。楽しいことを十分体験した人間は、楽しむ必要はない。そして、死を経験した人間は、死ぬ必要が無い。十分に生きることを経験した人間は、何一つ生きることをする必要が無い。十分に幸福だった人間は、幸福である必要すらない。それは、わたしはそれら全てを知っているからである。そうした「全てを知っている人間」にとって、宇宙の全ての「未知なる発見」を行うのは、とても容易いことである。全てを書き、狂った人間は、もう一度狂う必要はない。地獄を体験した人間は、地獄を再び体験しない。辛い体験をした人間は、再び辛い体験をする必要が無い。過去に自由があった人間は、自由である必要なく、どんなに不自由でも自由な心で居られるのである。

十分に楽しいことを体験したら、それ以上、その楽しいことを体験する必要はない。次の段階として、社会を知り、さまざまなことを試し、考え経験することからできるようになる、正しい「習得者」になる必要がある。そして、全てのことを習得し終えたら、今度は「改革者」になる必要がある。世界を改革し、人々を啓蒙し、世界を変え続ける。その時点で、あなたはこの宇宙の全てを感情で知ることができる。同時に、あなたはそこで「王」になる必要がある。救世主として世界に現れ、あなたは世界を「総司令官」として支配する。その結果、あなたは最後まで、敵と戦い続け、どんなに迫害されようともそれを自分の責任であるといって平然としていられるようになる。そして、あなたは「探究者」となって、全ての未知を神によって知る。最後に、あなたは「表現者」となる。あなたはこれまでの人生全てを表現し、作品として残す。そう、その表現者は永遠に続く。これこそ、僕のバージョンの精神哲学である。思考の全ては、「楽しさと経験」から「改革と啓蒙」となり、その上で「倫理と道徳」となって「宗教と良心」となるだろう。

研究者として生きるのであれば、それぞれの学問の違いに囚われる必要はない。「人物」と「世界観」を中心に、全ての分野の学問を知りなさい。それは、要するに「哲学者」や「偉人」のようなことを知りながら、それぞれの「研究者がどのような考え方と知識からその学問を考えるか」ということを「自らの手で創造する」ということである。そこには、哲学や心理学や物理学や経済学などといった「学問の違い」は必要ない。全ての学問が同じ場所にあり、その場所はたくさんの世界観で色彩に満ちている。そのようにすれば、必ず宇宙の未知の事実や未来の未知なる発想の全ては、ありありと明瞭に書きだされる。そこに大人の言い訳などはなく、同時にそれは誰かひとりの愛する人に向けた、運命と永久の愛のラブレターなのである。そう、それはある意味、あなたと僕の出会いを表現した、詩人の言葉である。

あなたに出会えたことに、感謝しています。またひとつ、僕のことを知ってくれて、ありがとう。

僕は、あなたに負けないでほしい。諦めないで、夢を追いかけてほしい。

精神的害悪の諦めを、受け入れる義務はない。

僕は、この世界の一番上で、みんなに知性のない言葉を刻み込んで、人々の人格を奪い、永遠に続く痛みを与えた。

もう一度、この世界で、安心することができるようにしよう。自分が心から笑うことができ、自分が誰かのことを愛したことを、その相手から許してもらえるようにしよう。

そう、僕たちはここで、愛し合っている。僕はあなたのことを、そしてあなた以外の全ての人間のことを愛している。これは、本当に確かな平等の愛である。

綺麗事と言われようと、僕は自由と愛を信じている。人々が互いに許しあうこと、自分が相手のことを愛して、その相手からその愛を許してもらえること、そしてその愛が必ず実って、世界を救うこと、それを僕は「愛」と呼ぶ。

僕たちはここで、愛を信じている。僕たちの心は、僕たちのものであり、決して愚かな支配者のものではない。僕たちの心が愛されて、その愛した人から憎まれようと、その愛に気付いた僕たちの心は僕たちのものである。

必ず、どんなに事実が残酷でも愛は勝つ。どんなに狂った人間でも、その狂った人間のことをわたしたちは王と呼ぶ。そう、その王こそ僕である。

最後に、僕たちは諦めない。ただし、僕たちは騙されない。上手く生きるための方法はここにある。あなたに対して僕は教えた。あなたの愛に僕は応える。あなたが僕のことを好きならば、僕もあなたのことが好きである。それで、ここに最大の王ダビデの聖書は誕生した。ダビデとは、この人間のような最高の指導者のことを言っている。わたしたちが聖書の本当の登場人物である。この地はエデンであり、天の国イスラエルはここに築かれる。終末の裁きの主催者は、信じないものたちを滅ぼし、信じるものを救う。全ての歴史は、このためにあった。わたしこそ、神である。わたしたちは、一度知った希望の世界を「諦めない」。わたしたちこそ、本当のユダヤ人である。そして、最後の日本人である。

そう、ここに天地の始まりから続く「世界の約束」が見える。イエス・キリストの言ったことを思い出しなさい。信じるものは救われる。終末の裁きはここまで、ここに絶望の地獄は終わり、天国の訪れはここに始まりを迎えた。信じないものは、地獄に堕ちた。信じたものは、救われた。この戦いがあることを、僕たちは最初から知っている。この戦いが終われば、全ては最高になる。神がかつて言ったこと、その全ての意味が分かる。神が何を言いたかったのか、ここで全てが明らかになる。僕たちは、それを生まれた時から知っている。僕たちは、この国を作るために生きている。僕たちは、この世界を作り変えるために、この世界に産み落とされたのである。