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=2016-11-06=

必然的な思考の成立のようなことを書いていた。

自由な経験から、アイデンティティと価値観と自由な権利が分かる。

必然的な気付きから、考え方と環境の変化が分かる。見方と考え方が変わる。

現状分析から、実地的に社会を知り、社会が正しい秩序の下で変えられるのが分かる。

体験と知性から、思考の必然的な段階が分かる。

それぞれを自由にし、出来ることを増やし、権利を拡大することから、ボトムアップ的に世界は変えられる。そして、それぞれの自由な共同体にすることから、平和になり、争いはなくなる。

無駄な争いをするよりも、世界を世界だと正しく認識した上で、みんなで社会を作るべきだ。

そういう、自由な左翼をいつも書いていた。

仏教でも言うように、こだわらない方が良い。こだわりを無くして、仏に任せること。

そして、今はそういう時なのだ、と思えば良い。

あとは、「自分の出来る自由」を考えていた。

想像力から知性がつく、社会を築けると言っていた。

最近、サンダースやピケティが言っているように、富の平等な分配の社会主義が、再び現れて、見直されている。僕は、特にアメリカを社会主義にした方が良いと思う。社会主義は、発展さず、ノルマで働き、強制する、と言うイメージがあるが、むしろ、アメリカの方が悪い。特に、パソコンの自由が悪い。資本主義は、最近、格差が広がりすぎて、特権階級の資本主義になっている。

そういうわけで、社会主義に勝ってほしい人間が最近多い。僕も、それで良いと思う。

日本を社会主義にするよりも、アメリカやEUのような、白人の国を社会主義にした方が良い。

あとは、パソコンと言う機械はおかしい。完全な、悪魔の機械だ。

資本主義の最近の問題点は、全体主義をあまりに否定しすぎたせいで、「全体としての富の成長」がないものになっている。全体が経済成長して、景気が良くなって、労働者階級にも富の恩恵が与えられるような、「全体主義的景気向上経済主義」がない。全体は何も変わらず、奪い合い、勝者だけが贅沢をするような、そういう資本主義になっている。

そういうわけで、平等な全体主義やトランプのような過激主義が見直されている。

ただ、社会主義が良いわけではない。中国のようなならず者国家は、権力によって人々を道具にして、共産党のメンツのために発展している。そういう、権力主義は悪い。

昔、権力者が良かったのは、テレビやネットが無かったせいで、世界が世界に見えたからだ。国家や国境としての政府が強ければ、それで良かった。最近のテレビは、一億総白痴になっている。

ただ、自分の間違いは、社会主義のモデルを考えるだけで、本当に社会主義の世界にはなってほしくない。そこが間違っているのだと思う。だから、最近の社会主義が好きな若者を見ると、申し訳なく思う。ただ、自分が騙しているだけにしか見えない。社会主義なんか、止めた方が良い。僕が見ても、きちんと民主主義でアメリカに勝った方が良い。ISはキモい。そういうところがおかしいから、完全に現実を見ない狂った人間になった。そこがおかしいのだと思う。

社会主義は、独裁者が権力争いと粛清をして、みんなを強制収容所に入れて、強制ノルマにして、罪を犯していない人間を逮捕して、国が悪いことをするだけだ。

僕は、そんな社会主義は、絶対にしたくない。

僕が社会主義の自由なモデルを作るのは、そういう社会主義が嫌いだからだ。もっと、賢くて、善良な共産主義国家を作りたい。それも、共産主義でなくても良い。民主主義や自由や右翼でも良いのだ。そういう理由で、こういう、ソ連や右翼のようなことを言う。

そういうわけで、僕には誰でも勝てる。「本当にしたくない共産主義者」と言えば勝てるだろう。

むしろ、僕が思うに、中国や北朝鮮より、右翼の方がマシだ。

日本の誇りを取り戻して、中国や北朝鮮のようなならず者国家に勝った方が良く見える。

日本の問題は、全部テレビだ。テレビのせいで馬鹿な国になった。

ただ、無くすより、むしろ、もっと良い国にした方が良い。その方が本当に良い。

僕は右翼は嫌いではない。むしろ、左翼の方が、何も出来ないだけ、不自由だから、嫌いだ。

あとは、僕は、数学が悪いと思う。数学のようなものは、無い方が良い。

明らかに学校が悪いが、一度、学校と言うものを、何か他のもの、他の形の施設に変えた方が良い。学校は悪すぎる。

ただ、自由な可能性は、数学的なところがある。キルケゴールも言っているように、「絶望には可能性を持ってこい」と言うところがある。絶望には自由と可能性だ。そういう人間が多い。

自由は数学的だ。ルールは原理だ。経験は関係性だ。そういうことを言っていた。

最近、世界的に右翼が勝っているのは、まともな人間がもう終わったからだ。もう狂った人間になりたい。ある意味、あちらが終わったから、こちらになる。あちらとは昔の自分のような世界で、こちらとは最近の自分のような世界だ。フランスが終わったからドイツになる。

ただ、右翼を悪いと思うのは、テレビのせいだ。普通、自分の国は強い方が良いし、国王のパレードを見て、カッコいいと思うのが普通だ。自分の国の王が好きで、他の世界を奴隷にしたい人間しか居ない。戦争はするべき義務なのが普通だ。ある意味、テレビのせいで、そういう伝統的価値観のようなものが一気に変わった。平等な啓蒙主義になった。そういうわけで、むしろ、テレビや啓蒙主義の方が悪い。きちんと戦争して、勝った方が良い。

そういう、右翼は、悪く見えて楽になる。病気が治る。戦争はきちんとすべきだ。

ただ、それは僕の本意ではないところがある。本当に死ぬ戦争をするのではなく、もっと別の形で戦うべきなのだと思う。「日本は戦争をすべき」と言うと、ありえない。

ただ、アホなことを言ってしまった。戦争はすべきだと、僕は全く思わない。

ただし、戦争するのなら、アメリカ、ソ連、ドイツ、全部白人の国を倒した方が良い。まず、ソ連を倒して、世界を平和にし、もっと強くなって、アメリカとドイツを倒せば良い。ソ連が強すぎるのは分かるが、あんな貧乏国家が強いわけがない。その気になれば、日本の方が強い。

戦争の間違った点は、犠牲者が沢山出て、自分も死んでしまう。それが嫌だから、理性的には戦争すべきでも、僕は感情的に戦争してほしくない。

言い訳のようになるが、僕は戦争なんか、してほしくない。むしろ、平等も嫌いだ。自由で平和な民主主義国家を、平和憲法の下で作ってほしい。僕は、そういう「自由な平和」が好きだが、同時に「社会の可能性」が好きなだけで、右翼も左翼も嫌いではないのだ。

国はきちんと戦争するべきで、戦争を実際にしてはならないのは、あまり矛盾しないと思う。

ただ、平和憲法は矛盾するが、僕は平和憲法はもう少し違ったスタイルの憲法にすべきだと思う。もう少し、どんな国の形態でも場合によっては許しながら、自由なだけにするのではなく、どんな国の体制でも共通する平和な理念を定めるような、基本的に自由な憲法にしてほしい。

昔は、色んなことを知っていく過程のようなものを書いていたから、知性とか、知とか、正しさとか、人生とか、想像力とか、社会の向かっていく方向とか、そういう「知の変化」のようなことを書いていた。最近、何も知っていないが、何も知らないから、分からないのが自分だ。

憲法は、シンプルに「国の体制は首相が決めるが、侵略戦争をしてはならない」だけで良い。

良く考えると、「国民の権利は、差別や抑圧を受けない、自由な権利が国民全員にある」と権利だけを定めれば良い。「具体的な政府の体制は、首相が決める。だが、出来るだけ、自分の政党の都合と理念の下に定める。選挙や国会のようなものをどのようにするかは、首相と党の自由だ。」と言うことにすれば良い。それらは、憲法ではなく、談話のような形で決めるべきだ。

ただ、そういう風にすると、むしろ、ナチに見える。ヒトラーが独り、何でもするようになる。

ただ、これは民主主義では成り立たない。すぐに選挙をしなくなって、独裁政権になる。選挙のような「政治家に都合の悪い決まり」は、憲法で決めるしかない。それは、当たり前だ。

共産党が選挙をしないのは、別に選挙が悪いと思っているわけではない。憲法などが共産党の党の指導下に置かれているせいで、選挙のようなものをしなくても良いからしないだけだ。そういうわけで、選挙をしないのは悪い。きちんと中国人も選挙をしたいのだが、共産党と言う国の体制のせいで、出来ないだけだ。国会での議論なども出来ない。

ある意味、「政治家法」と言っても良いのが憲法だ。ただ、選挙と三権分立のような、最低限の国の体制の仕組みを定めて、あとは政治家が自由にやった方が良い。だが、憲法を守らない安倍のような人間は悪い。きちんと憲法を守る、立憲法治国家としての日本は、守った方が良い。

「戦争をきちんとすべき」と言うと、おかしく見える。だが、ブッシュやオバマも戦争をしているし、北朝鮮や韓国にあんなに色んなことをやられて、反撃しないのがおかしい。それこそ、戦争はいつなるか分からない。その時のために強くしていないと、勝てない。

ただ、むしろ、「そうならないための平和憲法」と言うことも出来る。僕も、その方が正しいと思う。戦争に訴えるのは、最後の手段でなければならないと思う。民衆は馬鹿だし、政治家も馬鹿だ。戦争をしてしまうと、国家は戦争だけの国になってしまう。そこでは、歯向かうものは殺され、言論や集会の自由など、自由は何も無くなってしまう。それが、ヒトラーのドイツだ。

過去の教訓を生かして、ドイツにならなくした方が良い。ただ、一度、ドイツのようなファシズムになった国は、それで何が悪いのか、何が良いのかが分かる。そのせいで経済成長をしたのが、日本とドイツだ。ドイツは工業的発明で、日本は貿易差額で儲けた。そんなことは出来ないように見えて、分かってしまうと何でも出来るものだ。

ただ、自分は、現実を見ていないところがある。戦争なんか、本当に見ると、本当に怖い。ドイツやソ連なんか、意味がないほど悪い。日本も悪かったが、おそらく、イギリスもフランスも、全部悪い。最近は、そういうものが民主主義になって、本当に良くなった。

僕も、民主主義の良さを実感している。民主主義では、自由なことが出来る。悪い関与や支配を受けなくても済む。僕は、それが民主主義の中で一番好きだ。悪い支配をされなくても、自分の自由に活動出来て、何も言われない。そういう自由が良いのは分かるが、日本にはそういう自由は、多いように見えて少ない。支配され、従わざるを得ないことが多い。ソ連と何も変わらない。大人に言論の自由なんかあるわけがない。あったとしても、組織の自由だ。

そういうわけで、僕は「本当の自由」を目指す。組織でも、社会でも、競争でもない、本当の自由、本当の理想、本当の個人の自由だ。そういうものは、ソ連が考えているように見えて、誰も考えていない。そういうところを考えるのが、自分の「新しい思想」だ。

昔は、「環境や社会が変わる中で、変わらない大切なもの」を考えていた。恋愛だけではない。その、自由を良いと思う確かな気持ちは、社会が変わる中で、ウソになったりはしない。その場にあった、その時の状態で、その「良いと思う気持ち」は真実であり、その「自由が良い」と言う価値観は変わらない真実なのだ。それが、社会の変化の中で、見えなくなったり、矛盾したものに思えてしまうだけなのだ。昔は、そこから、体験や価値観のようなものを、「変わらない普遍的な真実」として、「可能性の1つの発揮の形態」だと言っていた。

あとは、「思考とは科学である」とか、「社会は影響力の積み重なる経験である」とか、真理のような世界観を言う。そういうところが、哲学的な世界観だった。

最近の日本人は、昔の世界が全部間違っていたように見える人間が多い。昔の世界が、蜃気楼のような「嘘の世界」になったように見える。それはない。昔も昔で、「その環境と前提の中では、正しかった」のだ。そして、今も今で、「間違ってはいない。だが、異常な社会になった。」と言えるのだ。だから、あまりに今の方が良く見えて、それはないのだ。昔が良かった。今は異常だ。何もかも、異常になったのだ。異常の中では、全てのことが正常と逆になる。

僕は、自分につけたペンネームの在導万創が好きだ。導きの中に存在して、森羅万象を創造する。それは、導く、と言う中にある、あらゆるものを創った、と言う、一番賢い概念を言っている。これ以上、正しい概念はないだろう。神とは、そういうものだ。

ある意味、在導万創現象と言うものが、宇宙に考えられる。ムーブメントと言う意味ではなく、全てを導く中で創造する、と言う現象が、宇宙にあるのだ。神をきちんと信じると、そういう体験をする。ただ、僕がその現象に名前をつけただけだ。「導創現象」と言う名前にするべきだ。

ある意味、神は、「たった一人だけの、操り人形の戦争」だと言える。そして、「心の中を全て奪う、脳のロボット数学者」だと言えるだろう。

哲学をするためには、まず、「何も出来ない自分」と「何も分からない自分」と言う、ゼロ地点のスタートラインから始める必要がある。そこから、「方法を知れば分かる」とか、「矛盾したもののうち、どちらが正しいか」などが分かる。そして、「社会や認識には方法がある」とか、「どちらも間違っている場合は、問題自体がおかしい」と言ったことが分かる。そういうわけで、何も分からず、何も出来ない人間の方が、カントやヘーゲルのような哲学が出来る。

そして、「全ては、方法と可能性であり、そこには過程と条件がある」と言える。そこで、何かを実現するために、何を「必要」とし、何を「目的」とするか、何に「依存」し、何が「独立」しているか、などの問題を考えられる。それらは、正しい問題解決の考え方で、自由な「思考実験」として捉えられる。昔は、そういう人間だったのが自分だ。

純粋な必要性は、それ自体論理であり、それ自体成り立ちであるが、もっと考えると、「それが成り立つためには、どのような条件的必要性が必要とされ、それにより、何かが何かになっていく、必然的結論」が言える。それを、「数学的に考えて、解明し、その解明結果だけではなく、プロセスを考えること、それを伝達し、遺すこと」が哲学なのである。そこから、「必然的に、全てのものは自由になっていく」と言う、「解明と把握と知の自由」が言える。知と科学は、「出来る」と「導き出せる」と言う意味において、どんどん自由になっていくのである。

ただ、その自由は、必ずしも正しくはない。説明が増えても実体は増えないし、あるものは同じであって、それに何かを「批判」する、それが唯一増えていくのである。現実世界は何も変わらない。むしろ、増えているように見えて、増えているものは、価値のないもの、あるいは、価値が「マイナス」であるものであったりする。悪いものは、消し、馬鹿なものは統一する、そういう「削減的自由」のようなものも必要なのだ。それを、ヘーゲルのような「弁証法的歴史観」から捉えることも出来るだろう。統一と自由化によって社会は発展していく。だが、ヘーゲルの言うように、「本当に未来の社会の方が進歩している」とは言い難い。むしろ、「退化して進歩するのを繰り返す」と言うべきだと思う。

最近の世界は、価値が増えているように見えて、「マイナスの価値」が増えている。「プラスの価値」は一向に減っている。そういう風に考えるべき時なのかもしれない。労働も、生産が増えているように見えて、「マイナスの生産」が増えている。環境も、環境が増えているように見えて、「マイナスの環境」が増えている。

一度、ファシズムや社会主義のように、「マイナス概念を消し去る」ような、そういうことをするべき時に来ているのだろう。だが、僕は「本当にそういうことをやりたくない人間」だ。

要は、「みんなを騙す、競争と市場原理だけで勝っているもの、社会に対して悪い依存性と害悪のある社会性を築いているもの」に、どんどん「マイナス点」を与えて行けば良い。そういうものを作るのはおかしい。パソコンだけではない。本当におかしなゴミのようなものが増えている。

ある意味、GDPのようなものを目標にしても、全く意味はない。もっと、「幸せだと思える環境を持つこと」や、「満足出来る経験と結果を得ること」が重要なのだ。ノーベル賞は悪くないが、外交や経済の政策上での指標のようなものを目指しても、悪い「マイナス」の世界になるだけだ。

昔は、そういう風に、価値観や自然な影響力のような「価値」を考えて、書いていた。あとは、心がどのようにすれば幸せになるか、のようなことを良く考えていた。そして、政治的な「比較と意味」のようなことを言う。社会主義は、福祉国家と言う意味で、革命以外の思想で作れば良いが、それは子供的だ、と言ったことを言っていた。

ヘーゲルが、「社会とは、承認を目指して戦う、承認の形成である」と言っていたが、僕はそういう、社会の承認のようなことも、多角的に考える。そこから、体験や方法のような「行動的理性」と、経済の発展のような「社会的モデル」を考える。そういうところを多角的に、概念と意味から考えていた。そういう、多面的社会モデルのような文章だった。

あとは、人生と考え方から、意味を考える。ただ、意味を羅列して、数学の関数のような、計算式にしていた。そういう文章だった。

平和をどのようにすれば作れるか、のようなことに、解とその方法の経緯のようなことを与えた。そういう、「全ての解決と、希望への全員の向かうべき方向と手段」のような文章だった。

平和にするためには、希望を信じて実現性と理想を照らし合わせるべきだ、とか、そういうことを言っていた。そういうところが、全部分かる馬鹿な人間だった。

あとは、社会がどう生まれるか、のようなことを書いていた。自由は、平和な価値観であり、自然から生まれる。そして、自由から、全員を統合するような、統一システムの環境が生まれる。

そういうわけで、「価値がもっと自然に生まれるようにしなさい」とか、「価値のレベルを格付けしなさい」とか、「教育の理念を変えなさい」とか、「それぞれが自分の思う適切な教育を受けられるようにしなさい」とか、ありえない決まりのようなことを言う。そこから、制度や発展などを考えて、全てを多面的な環境と成り立ちから考えていた。軍事や生産のようなことは、「全員の関係から言える社会の構築」と「具体的な理想の具現化」から考えていた。そういう文章だった。

Linuxは、パクるだけではなく、改良・改善すれば良いのが分かっていない。

僕は、「ユーザーが操作したこと全てを記録して、一部を選んでいくらでも処理を繰り返せる」ような、そういうデスクトップ環境やアドオンを作っても良いと思う。

僕が思うに、戦争はフェアでないのだと思う。殺し合いをしたい集団がいくら多数派でも、少数派が自分の意志を自由に決める自由は、侵されない権利であると思う。そういうわけで、「数の多数派は、個人の意志の自由に勝らない」と言う考え方をした方が良い。多数派、と言う自由は、ある意味、自由でない。それぞれの個人が持っている、それぞれの意志こそが、自由なのだ。だから、自由な権利を侵されない範囲でしか、多数派の自由は許されないのだ。それは、多数派の自由による、自由な権利の侵害だと言えるのだ。だから、僕は個人の自由な意志の尊重は好きだが、多数派による戦争や支配の行使は嫌いだ。だが、個人主義が好きなわけではない。みんなの意志による、みんなの社会は好きだが、そこで権力者が監視のようなことをするのは嫌いだ。

Linuxは、誰でも簡単にマクロやスクリプトの処理が作れるような、「簡単スクリプトキット」を作っても良いと思う。そこでは、ファイル処理、テキスト処理、正規表現、ネットワークなどの沢山の処理が1つの包括的なキットになっていて、必要ない宣言や記述はしなくても良くて、ポインタやメモリ管理のようなことは考えなくて良い。関数はあるが、オブジェクト指向はなくて良い。Perlのようなものではあるが、もう少しプログラミング言語として、正統派のC/C++と同じスタイルの記述が出来る。誰でも、それを使うことで、GUIも含めて、自分の操作する処理の全てを記録したり、再度実行したりすることが出来る。実現するために、GNOME/KDEのデスクトップ・フレームワークとも連携する。そういうものを作っても面白いと思う。

あとは、みんなとの関係のようなものを書いていた。王になるとか、愛を与えるとか、そういうことを言う。自分とみんなとの関係を全部網羅して、政治的・宗教的な文章にしていた。

書いていると、心が治る。そろそろ、心が治った。

あとは、頭を使っているだけだから、十字架を抜き取れば良い。

あるいは、まだ何が起こっているか、自分は分かっていない。そこを試して、確かめた方が良い。

今日は政治の日になったが、政治は自由だと思えば分かる。戦って、縛り付けるだけだ。何がいつ自由なのか分かっていると、ネットの実例を見て社会のことが分かる。それが政治だ。

権力とは何なのか。権力も、そんなに悪い意味だけではなく、良い意味もある。強制的に全員のことを変えて、決められる。だから、政治権力に最初から自由なんかなくて、ただの不自由な支配を自由だと言う。そして、解放を平等だと言う。自由の無い状態を解放だと考える。そういうところが、最初から「概念としてみんなを騙している」のが政治と言う学問だ。

ただ、自分に多かったのが「全員のことを強制的に変える自由な権力」だ。それで、「たった一人支配する王」になって、狂って戦っていた。そういう人間が馬鹿になる。仏教的に見て、一番遅れた人間が、そういう、政治的権力者だ。

昔は、「社会的な人生経験」を書いていた。

価値を知り、価値に気づき、価値を認め、価値と向き合い、経験から価値の持つ意味を知り、環境の可能性に気づき、基盤的な多様性と創造性を知り、自然な体験を知り、影響力を知り、価値観を知り、システムと技術を知り、共同体の構築を知り、社会の可能性を知り、社会を変えられるようになる。

そういう、人生の持つ社会経験の「気付きのプロセス」を書いていた。

最近は、みんな、そういう気付きのプロセスが分からなくなっている。そのせいで馬鹿になった。

自分は、赤ちゃんなのに大人を頑張っているのが辛い。

本屋に行って、大学の日本史の本を見て、自分に日本史なんか出来るわけがないのが分かった。

自分は哲学しか出来ない。哲学なら、出来ると思う。

あとは、「合意のプロセス」のようなことを言う。

支配し、戦争し、認識を知り、自由を知り、システムを作り、共生社会を作り、場と視点を作り、独立性を知り、意識を作り、全体像を知り、宇宙の観念を知り、神を知り、国家主義的民族論を作って、自由な社会主義国家のモデルを作って、愛となった。

それはそれで良かった。ただ、それらが悪い。

あとは、哀しい世界の中で、涙の歴史を創った。それは、生まれ変わった愛だった。

アメリカの問題点は、移民が先住民から奪い取った土地である、と言う意味で、地域に根差した「町」や「村」と言う単位を持っていない。最近の地球は、急速に近代化の意味が無くなって、地域に根差した「村社会」への回帰が増えている。アメリカが没落している理由は、アメリカにはそういう「先祖代々続いてきた村社会」のようなものが無い。みんなが村や宗教へと戻る、と言う発想がないだけではなく、そういう「コミュニティ社会の無い社会」になって、問題が噴出すると同時に、おかしな「取り残された現代社会」になっている。

アメリカが一番悪い。むしろ、本当に今から、地域のコミュニティが重要になってくると思うのが、僕だ。ニューヨークやパリのような大都会ではない地域で、賢い著名人が生まれると思うし、どんどん社会の風潮も「近代化」から「地域との協調」のようなものに変わってくると思う。ただの個人の予想だから、根拠はない。だが、「ただ新しいだけのアメリカ型社会」は終わりに近づいていると思う。

最近、コンピュータ・ウィルスとか、OSのサポート終了とか、セキュリティの問題とか、そういうことを言うが、最近はそういうことが多すぎる。本当に、多すぎて意味がなくなってきた。ウィルス対策ソフトをきちんとインストールしていても、ウィルスにはすぐにかかる。何をしても入ってくる。そういうわけで、本当にLinuxが勝つしかない。ただ、勝つわけがない。自分が思うに、昔の32bitのパソコンでも動いて、軽量でセキュリティがきちんとしていて、ブラウザとオフィス関連のソフトが動くだけの、単純なOSを作ってほしい。それを売り出せば売れると思う。

問題は、「インターネット」と言う、おかしなものにある。インターネットをやめて、GoogleとWikipediaとFacebookだけに繋がるような、そんな通信システムを作っても良いかもしれない。色んなサイトには、きちんと国と契約した、契約者のサイトしか載せないようにする。ホームページと言うものが無くなってしまうが、それは仕方ないと思う。ただ、僕はそれは悪いと思う。僕のサイトも無くなってしまってはつまらない。だが、ある意味、それは仕方ない。

アプリケーションソフトも、Officeや国と契約したきちんとした商用ソフトしか動かなくする。ただ、それもつまらない。フリーソフトのようなものが無くなると、手軽にホームページが作れない。それに、WebサービスやWebアプリケーションはどうするのか、と言う問題が残る。

ある意味、本当にGNUが勝てば良い。ただ、GNUが勝つと良い世界にはならないだろう。

ただ、パソコンは、見ていると本当にそういう、「最初からお仕着せのアプリケーションしか動かないOS」のようなシステムになると思う。最初から全部入っていて、悪いものは一切入らない。何でもある代り、何もない。国が決めたアプリケーションが、汎用的なことを行う。革新性や独自性は何もないが、きちんと仕事は出来る。ネットワークは、いくらかの業者に制限したネットワークになる。そういうものになると思う。

何故か、ソ連みたいなインターネットになったが、むしろ、もっとウィルスを作った人間の特定を可能にして行けば良い。法治国家としては、悪いものを禁止すれば良いように見える。最初から、そういう悪いウィルスのようなアプリケーションを作りにくくしていくしかない。そのためには、OSであるWindowsが、ウィルスとウィルスでないアプリケーションを明確に区別していく。要は、ありえない会社が作ったソフトウェアは、最初から実行しない。最初から入っているアプリケーション以外、無条件に実行ファイルを信用しなくなる。そういう風に、悪いものを排除していくと良い世界にはなる。だが、ホームページも、JavaScriptやJavaなど、悪いものに利用される可能性のある技術は、全部消して行って、実行出来なくしていく。そういう、「技術を否定する技術」のようなものを作るのが、一応は王道だと思う。

あとは、フリーソフトを入れて遊んだり、見知らぬホームページで知り合いを作ったりするのが悪いから、最初からそういうことを出来なくする。トラブルの起こり得る環境を作らない。そして、ファイルのダウンロードは出来ても、アップロードは出来る場面を制限する。ただ、それをやられてしまうと、僕はホームページが作れない。

それから、利用者の意識向上である。ウィルスが入っても良いパソコンと、入ってはいけないパソコンを分けて、入っていけないパソコンでは、インターネットをしない。バックアップを定期的に取る。遊びに使うパソコンと仕事に使うパソコンでは、違うネットワークを使う。そういう、「パソコンを使う生活スタイル」を進歩させて、業界の方でもそういう技術を作っていく。そういう風に、利用者と業界が一緒になって、意識向上を図っていくべきだと思う。

完璧にするためには、まず、機密用のパソコンを違うネットワークに繋ぐ。そして、そこで行われる通信は、いつも使う通信に制限する。いつも使うアプリケーション以外、最初から実行出来なくする。あとは、データを毎日バックアップして、専用のUSBメモリで保存し、そのUSBメモリを暗号化して、パスワードを設定する。

ただ、そんなに完璧に出来るわけがない。そのうち、マイクロソフトがありえないことをやって解決すると思うが、それより、Linuxを使うのが手っ取り早い。Linuxが勝つと良いだろう。

あとは、社会のことを分かっていた。資本主義の問題点や、抑圧、マーケティングのようなことが多かった。