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=2016-10-31=

学校の分類ではなく、子供のように考えれば良い。

生物のことを科学だと思う人間が多いが、子供が見て、生物は科学ではない。

科学は、人間が作りだした自動車のようなもののことを言う。

生物は科学ではないが、生物学は科学だ。

子供には、先入観が無いから、野菜のことを「葉っぱ」だと思う。

ただ、大人は分かっているから、「食べられる野菜の玉ねぎを植えている」と思う。

子供は、感情で分かる子供が多い。

みんなが怖いのは、みんなが悪いからだ。

みんなは、怖くなくすると、すぐに倒れる。勝手に倒れるようにすれば勝てる。

良いことも、悪いことも、過去のことも、現在のことも含めて、「どうなったか」を考えなさい。

自分は、学校の勉強が出来るのが悪い。

悲しいのは、昔の子供時代に知り合った人間関係を、無駄にしたからだ。

愛を信じること。

自分は、みんなに与えた愛を自分で破壊したのが悪い。

「自分にしか出来ない」と思わない方が良い。それも、世界を救えるのは自分だけだと思っている。

本人にしか分からないとは言うが、きちんと伝えれば分かる。

世界を救うためには、愛を信じること。たとえ自分が滅ぼした当人だとしても、愛を与えたい。

人間は、狂うと分かる。

そして、愛すると、狂う。

最近は、そういう、愛で狂う人間が多い。どんどん狂って、分かるが、おかしくなる。

最近は、愛はあるのかもしれないが、信じれらなくなっている。

他人のことを信じられない。信用出来ない。

ある意味、信じることと、分かることは、同じだ。

信じられないことと、分からないことは同じだ。

そういう風に、分かるせいで意志の疎通が出来なくなっている。

ある意味、分からない方が正常だし、狂わない方がまともだ。

分からない方が良い。

むしろ、愛を破壊した方が良い。愛と言う感情はおかしい。ただ、愛によって狂っている。

愛を破壊し、人を傷つけた方が、はるかに良い国になる。

「ふーん」とか、「だからどうしたの?」とか、傷つくことを言った方が、相手が賢くなる。

自分は、治したのが悪い。むしろ、狂ったのが悪い。

自分は、救ったのが悪い。むしろ、滅ぼしたのが悪い。

そういう風に、「自分が何をして、どうなったのか」と「その矛盾」を考える。

どうなった、の前のどうなったを考える。

それは、別に戦争以後の自分ではなく、戦争以前の自分まで、遡って考えれば良い。

戦った。むしろ、戦わなかった。

無駄にした。むしろ、築き上げた。

平和になった。むしろ、戦争になった。

賢くなった。むしろ、馬鹿になった。

そういうことが、全部悪い。自分は、そこが分かっていない。

これなら、正しい心理学に見える。

言わないせいで、そういうことが全部分かっていない。忘れている。忘れたことすら忘れている。

基礎の方法と論理、数学的事実を積み重ねて、数学の前提構造を作っていた。

2+3と、3+2は、全体の値が同じなだけで、全く違う。

虫が気持ち悪いのは、虫を食べてしまうと、他の動物が食べるものが無くなるからだ。

環境の秩序や決まりを考えていた。

作用や関係が環境に与える影響のように、環境の決定的事実と決まりを考えていた。

それを見ている自分の側を考えていた。

いつ、どんなことが出来るのか、どのようにすれば出来るようになるのかを考えていた。

傷つけると、日本が治る。もう、楽しくて分かる正常な国になる。

そういう、環境的で、状況的で、現象的な、論理的な関係と環境の把握、発生、実現、自然を書いていた。そういう環境を全部作っていた。

そして、社会の変化と、未来がどうなっていくのか、どこに要因があって、どんな具体的変転を遂げていくのか、のようなことを書いていた。

足は、治った後の状態を先取りしていると治る。

楽にして、何でも許して、満足していれば治る。

そういうわけで、「楽だ」と思えば楽になる人間が多い。

もう終わったから、何もしなくて良い。

どうすれば分かるのか、気付きと説明から良く考えていた。

環境の内側に居ると、分からないこともある。それぞれの本当に現場に関わり合う人々が自由にするべきだが、どこかに居ると分かることは、その時は分からない。昔は、そういう普通分からない分かるのを追い求めて、それで分かっていた。

全ては、経験から自然に出てくる発想を知ることで、「その発想は自然なのだ」と言うことが分かる。そして、いつどんな発想が出来るのか、その発想が何から生まれるのか、実体験で分かる。

真実は、それ以上正しい・間違っていると言えないところまで考えて、その正しさを積み重ねて、対比し、総合的なモデルにして、仮象の世界を知り、可能性の全てから体得することだ。

真実は、良く考えながら全ての経験をすることだ。

真実は、情報を知りながら、経験し、自由になり、愛を知り、疑い、信じ、治すことだ。

良く分からない。もう、覚えていない。

真実は、常識や普通のこと、みんながそうだと思っていることを疑うことだ。

経験と回想意識から場が分かる。場は、変えられる。

経験、環境、社会、可能性の自由を高めることで、自然になる。

客観視して、例えば「支配する」と言うことは、「支配される」と言う立場から考える。

そこから、哲学的な真理が見えてくる。

知っている人にしか、分からないことはある。知っている人が、知らない人に助言を与えるべきだ。

法則と因果性を知ることで、人は人を支配出来る。導くことが出来る。

自分は、今馬鹿なだけで、ほんの少し前は賢かった。そんなに何も分からなければ治る。

経験と手段から発想と可能性を知り、真実の経験をし、システムを知り、行動し、全て出来るようになった。昔は、それだけだ。

学問は、基礎の構造を自分で作れば、全分野出来る。そういう、「ありえない可能性」を書いていた。

共通の秩序と価値観を、環境を良く知った上で作りなさい。

本当に見ると、日本人、黒人、ロシア人、イスラム教徒、イタリア人、ドイツ人だ。

辛くなれば治る。耐えて、続け、支配するのではなく、途中で終わらせて、辛くなれば良い。

そうすると、神経が治って、支配が終わる。

昔、僕は、オープンソースの開発体制に憧れていた。

OpenJaneの派生の開発者の一人、View氏などを見て、オープンな開発と共有が好きになった。

そして、昔から、僕はPerlで作ったブラウザゲームが好きだった。

それから、OSを作りたいと思っていた。デスクトップ環境とWebブラウザを作りたかった。

Windowsのフリーソフトが好きだったが、自分が作るなら、Linux向けに作りたかった。

それは、Windowsのフリーソフトが、すでにいくらでもあったからだ。