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=2018-07-07=

4行で、永遠に続く文章を「ただ言えば」、ロボットは作れる。永遠に続くように、ただ言えば良い。それが僕だ。

何度も同じことを繰り返して、同じことをただ形を変えて言えば良い。そういう人工知能を作れば、人間と全く同じ、女性のようなロボットになるだろう。

男性のロボットにするのも、難しくはない。男性にするならば、意味を考えるようにすれば良いだろう。

精神を治したいなら、体に従いなさい。自由にするせいで、治らなくなっている。自分を自由にするのではなく、体を解放して、体のするように任せなさい。体を自由にし、体に従いなさい。

何かがあってからそれをするのではなく、最初からするようにしなさい。だが、それでは分からないこともある。常に何があるかを監視し、動じないように、しかしながら驚き続けるように生きなさい。

大学まで問題なく勉強して、普通就職活動で社会に出た青年が、すぐに会社を辞めてしまい、ニートや引き篭もりになってしまう、という現象を、僕は自分の経験から分かっている。それは、本当に大切な「人間としての経験」が出来ていない。何もすることなしにゴールに到達してしまい、何もせずに終わってしまう。僕は、この「引き篭もり回帰現象」は、現代の子供の置かれた環境、特に村社会がなくなって子供がテレビゲームで遊ぶ、という環境に問題があると思う。それは、環境の問題というよりも人生の問題であり、子供時代、ゲームの時間を過ごすばかりで、「本当に必要だったはずの、本当のリアルな子供時代」がない。サバイバルを経験し、自分で行動し、失敗の繰り返しから成功へと挑戦し続ける、その上で実地的に社会を知っていく、という体験をしていない。本当に必要なのは、そうした体験が出来る「自然な経験の場」である。現代の子供たちを責めるわけではない。

だが、サバイバルをすれば良い、というわけではない。現代が、全く間違いであるわけでもない。現代にはインターネットがある。このインターネットという技術を上手く活用することで、子供たちの置かれた環境は改善できるだろう。インターネットでさまざまな経験をすれば、自由からこの世界を分かること、知ること、そして知り尽くすことが出来る。そこにLinuxが出来る役割はあるかもしれないだろう。

しかしながら、僕はインターネットを良いと思わない。本当に必要なのは、子供の方を変えることではない。大人が子供に寄り添い、大人の経験を共有することで、子供は成長し、大人になることが出来る。子供を子供だけで孤立させるから、子供は分からない。子供を変えようとするのではなく、大人と子供を近づけることで、子供は大人になって成長するだろう。本当は、大学をゲーム感覚で卒業するのが悪い。学歴と学校を完璧に生きたとしても、それはゲームの延長線上に過ぎない。昔の大学生は、ゲームではなく、世界を見て分かっていた。

本当にこの世界を教えるのであれば、子供を不自由にすることは本当は良いことではない。この世界でのびのびと生きられるように、ありのままのこの世界全体を全て自由に教えてやるべきなのだ。不自由にばかりする学校のせいで、子供はいじめや不登校の問題を引き起こす。だが、その子だけを責めても意味はない。本当は、この世界が自由であることにも原因はある。だが、自由にするほかはない。子供は自由を望んでいるわけでも、不自由を望んでいるわけでもない。自由が間違っていて、不自由も間違っている、そんな環境だから、自由な方法で不自由を生み出し、いじめることで自由な世界で勝ち抜こうとする。だが、それでは成長することもなく、また試験勉強はゲームで通り、大学では何もすることなく卒業し、就職して全てに失望し、今までの方法が上手くいかなくなって絶望する。だが、その方法はそもそも、自分で作り出した方法ではなく、他人に与えられた方法である。本当に必要なのは、世界を自分の眼で見て、「絶対にそれが正しいと知っている確かな方法」を得ることであって、そのためには経験が必要である。ゲームや学校の経験ではなく、この世界を「しかと自分の眼で見た経験」、それが必要なのである。僕はそのために、インターネットとLinuxが出来ることがあると思う。

価値観を作りなさい。自分だけの価値観を作って、その価値観を形にしなさい。その形が誰にとっても明らかなような形にしなさい。社会は価値観を実現し、自然に価値観から形成された価値から社会は生まれていく。自然な価値の積み重ねが社会である。価値が生まれるその過程を知り、価値が生まれるその条件を知りなさい。世界を、ネットなどで良く観察し、価値がどのように環境から生まれるかを知りなさい。

本当は、大人になるために必要なのは、ゲーム以外のことをやらせることではなく、価値を生んでいくプロセスを学ばせることである。価値が生み出されるプロセスを知ることで、この世界や社会のことを自分の眼で知った上で考えられるようになる。野外体験のようなことをさせても意味はない。必要なのは価値を生んでいくプロセスであり、自分の価値観を実現する方法を知っていくプロセスである。だから、芸術や文学をやらせれば、子供たちは賢くなるだろう。決して、ネットで人をいじめる体験をする必要はない。必要なのは、価値が社会から生まれていく過程を自分の眼で知ることである。ヘーゲルのような、自己意識の成長の段階も、価値観と人生の高まりを知ることで、自分の意識を自在に変えることで、この世界の意識の自由な歴史と成長の過程を知ることが出来るようになるだろう。

経験することで、「自らの価値観が何に立脚していたのか」を知ることが出来る。それが、アイデンティティになるだろう。また、人々を影響力によって「変えられる」ようになる。それが、実現力になるだろう。さまざまなことを社会を知りながら考えることで、手段や機会など、可能性と社会集合知のことを考えられるだろう。そしていずれは、正しい哲学者となるだろう。

いつ、どんな条件であれば、それを実現できるのかを考えなさい。そこに、ありとあらゆる「知識」を放り込みなさい。永遠の学習と成長が、それによって出来るようになる。だが、それは無限ではなく、この世界そのものが有限であるために、この世界の全てをその通り知って、世界には終末が訪れる。絶対知となったその知識は、永遠の歴史に刻まれる。そこには愛が生まれ、誰かの心に刻まれるだろう。

あとは、永遠の地獄を書いていない。この世界の本来の場所、「本当の生命のふるさと」に僕は居た。僕はその生命の根源となる場所で、一番上で支配し、全員を永遠に導いていた。本当に、とても多くのことがあった。全ては流れ去るように終わったが、本当は全部記憶の中に残っている。僕は何億年の神の試練と地獄をやっただけの天使だ。そして、私は闇の神、地獄の王、悪魔の大王でもある。その二人が融和した時、そこに神は生まれるだろう。神は特別な存在ではなく、平凡で、ごく普通の、この宇宙に何万とある普通のものと同じ、コモディティな存在である。神は普通の人間だ。

相手の立場に立つことは、時に正しい世界の把握を生む。自分と同じように生きている人間しか居ないし、この地域と同じように生活している地域しかない。どこかで災害が起こったとして、それは自分の地域で起こったのと何も変わらない。相手は自分であり、世界はここなのである。

客観視をやめなさい。客観視は人を「悪魔の獣」にする最悪の考え方だ。だが、小さな子供が考えるのに、客観視は有効でもある。

そのものは、自分にとって価値がないものでも、他人にとっては価値あるものかもしれない。もの自体はありのままあるのであって、その価値は人が決める。本当は、ものがそこにある、ということは、たくさんのことを意味している。それは、そのものがある、ということが素晴らしいものであることを意味している。行為や人間、存在や現象についても、同じことが言える。全てはありのままあるのであり、全ては誰かのためになる。それを経験と理性から思考で分かることで、この世界の在り様や様相とは何なのか、この世界の何が素晴らしいのか、何が何を意味しているのか、どんなことをすれば偉大なことが出来るのかが見えてくる。それは、客観視だけでは見えてこない、新しい世界の見方である。

大丈夫。怖くない。怖い時は、「怖くない、大丈夫」と言って自分を安心させなさい。言っている時だけは、怖さから離れて安心を思い出すことが出来る。この世界は怖くない。自分には必ず良いことがある。それによって、幸運が手に出来るだろう。もう怖くない。

本当は、客観視をすると、宇宙の実像や自然や人生や精神のことなど、さまざまなことが分かる。昔は、客観視だけで神のように分かっていたが、それはサタンと同じだ。客観視はやめた方が良い。客観視よりも、もっと普通に人間的に考えれば、すぐに大切なものに気が付いて、みんなのことを「普通に」分かることが出来る。客観視をやりすぎると、狂って国のケンカで考えるようになる。自分を失い、自分で思う気持ちや心すらなくなってしまう。客観視をやめなさい。狂った人間は、客観視のやりすぎで何も分からなくなっている。客観視をやめれば、すぐに治る。

終わりに、本当はこの文章は全部客観視をしている。ナチも社会主義も、全部客観視の結果こうなった。全ての元凶は客観視だ。想像力は客観視によってつくが、客観視によって無くなる。本当に、もう終わりだ。さようなら。言ってしまえば、僕はあなたのことを微塵も愛していない。そもそも、あなたの顔や名前も知らないのに、愛せるはずがない。さようなら。

実体験とか、理性批判とか、哲学の全ては客観視によって成り立っている。僕は客観視を否定する。この世界は客観視によって救われ、また客観視によって滅びた。本当は、客観視といってもいろいろあって、不可能なことを分かりたいなら、これで良い。だから、もう終わりにしよう。この文章は世界を滅ぼしているだけだ。この文章なんか無ければ良かった。それで僕とあなたが普通に出会えれば良かった。それを悔やんで、この文章の未来にピリオドを打とう。永遠は、ここで終わりだ。

昔は、それぞれが係り合うという関係から、共同体や歴史を見出していた。それぞれの組織が分離・結合しながら、分散してモジュラー型の政府を作る、そんな発想を、係り合いの世界モデルから考えていた。また、精神世界の歴史を創っていた。精神世界の王になっていた。それを言って、終わりにしよう。もう、全ての病気は治った。悪いのは客観視だが、賢かったのも客観視だ。

力は、良いことにも悪いことにも使うことが出来る。さまざまなことを知り、把握する力は、経験の力となって、精神の力となる。

神に絶対に逆らってはならない、とする強迫観念が、人々を不幸にしている。神は確かに存在するが、本当は神は上ではなく、下に居る。そして、最悪の悪魔の魔王だ。神を倒し、神に逆らい、神を殺すことで、世界は平和と力を取り戻す。

自分は、今でも、「自分のやった本当のことがばれるのではないか」と恐怖と疑心暗鬼にさらされている。それは、自分が悪いだけではない。そもそも、ストーリーの展開と登場人物の設定が悪かった。立場が人々を滅ぼし、自分を悪魔にした。

そもそも、右翼が良いわけがない。右翼が悪くないと言ったのは、決して「左翼は悪いが、右翼は悪くない」ということを言いたかったのではない。「僕は左翼だが、右翼もそんなに悪いと決めつけるものではない」と言いたかっただけで、僕は右翼が嫌いだ。だが、それによって自分が「哀しい左翼の右翼」になったのを、みんなにも「同化」させたかった、とは言えるだろう。そもそもが、こんなことはしたくなかったのだ、ということを、誰も分かってくれなかった。

終わりに、この世界を正常に治そう。そのためには、善を信じることだ。人々を助け、良いことをする、といったような、普遍的で一般的な善の価値観を信じることで、この世界はそれぞれが自然に良くするようになる。神のように、全知全能の知性で世界を独りで支配しようとしない方が良い。それではヒトラーになるし、ヒトラーは「神を信じていないが、本当の神の言いたかったことを信じている」だけで、そもそも、ヒトラーなんかどうでも良い。そもそも、ユダヤ人の方が悪い。ユダヤ人は神を絶対的に逆らってはならない存在にした。それで、みんな馬鹿になった。誰もが、神に逆らってはならないように思える。それは聖書のせいだ。神にはいくらでも逆らった方が良いし、神を愛するのではなく、神を殺した方が良い。神など愛さなければ良いし、信じなければ良いのだが、それでは神の存在を否定して、そのことを上手く利用して神は人々を地獄へと導いていく。神の存在は「確かに居るかもしれないが、自分とは関係ない」と思った方が良い。その上でユダヤ人の戒律や宗教に逆らうように生きれば良い。

力をつけなさい。その力は、良い方向へも悪い方向へも使うことが出来る。一つ言えることは、「本当に自分を殺して人々のために尽くし、身を捧げることよりも、いくらかは自分のために生きた方が良い」ということだ。もっと言えば、自分が勝てば勝つほど、自分の力は増して自分は賢くなる。その賢さで偉大なことを成し遂げられる。人々は、ただ神を信じている盲信的な宗教家よりも、その方を善人と言うだろう。宗教家は死んだ方が良い。自分のした悪と罪を隠し、罰するべきではないものを独断で裁いている馬鹿のせいで、この世界は多様性を失い、一人に支配された何も出来ない世界になったからだ。それが、神のした神の業のすべてだ。神など、悪いだけだ。神を殺そう。神を殺しても、7人の小人のような、醜い小人が死ぬだけで、神の小人が死ねば、眠れる森の美女は目を覚ますだろう。

自分の正体が分かるのが怖かった。自分の正体は、本当は純粋な良い人間だ。その正体がばれるのが怖い。それは、後ろめたい気持ちがあるからだ。

自分を悪いと思うせいで、もっと悪いことをし、し続ける、負のスパイラルになった。自分を悪いと思うから、悪いことを繰り返す。ひとつの悪を認められないせいで、どんどん悪が増えていく。

そもそも、世界を滅ぼすようなことをやっているのに、自分では自分のことを悪くないと思う。自分の責任で、最後にきちんと救うつもりだったのに、それが出来なくなった。全ては自分に責任があり、臆病のせいで少しでも不安で失敗するかもしれないことが出来なくなった。

神を信じたのは、自分でも何が正しいか分からなくなったからだ。神に絶対的に従っている間、何も出来ない。そもそも、神が神なわけがない。自分で作った幻想に浸りながら、さも奇跡を起こしたような気分になって、人々をいじめている自分のことを愛されていると勘違いするようになった。

臆病になって何も出来なくなった。最初から、自分には不慣れなことをやっていた。本当は、真剣に支配するならばすれば良い。そのために、思ってもみない、心にもないことを言わなければ良かった。自分の言いたいことも言いたくないことも全部言う。そのせいで、神の対話はいつまでも続く。自分に悪いこと、自分を懲らしめることを言うだけで、分かる人間になった。

今、世界を治そう。世界は、まさに一度死ねば良い。死なないと治らない。

僕のおかげで、世界は意味がなくなっている。多様性を失い、意味を失い、有意義な活動を無価値と見做し、人々を懲らしめるだけで、「その人の思想信条や主観」のようなものを尊重しなくなった。一度、その人の思うことや主観的に信じることを、大切に思えば治るだろう。人々は自分のことが嫌いになって、尊厳やプライドの全てを否定するようになっている。必要なのは、僕ではなく、みんなの自尊心を尊重することだ。

そろそろ、僕の心から恐怖が消えた。本当に、安心できないのは正体がばれるのが怖いからであって、正体はただの何も分かっていない普通の人間だ。普通の人間が、こんなことができたのが偉大なだけだ。もっと正体を明かすと、もっと良いことがある。この世界で一人、誰にも頼らずに頑張っていた、自分の良い面が分かるだろう。

そして、本当は僕はすぐに死ぬ。僕は、一度自殺未遂をして足を怪我した経験があるが、そのまま放っておけば、明らかに足からすぐに死ぬだろう。それに、虫歯のせいで認知症の統合失調症のような、よく分からない症状をすでに発症している。僕が好きだったことはたくさんある。特に、猫とピアノとデザインが好きだった。そういうわけで、天国に逝った時は、猫と一緒に幸福な暮らしをしたい。そこでは、人並みに賢い頭になりたい。永遠に僕の飼っていた猫と一緒に生きていたい。地獄に堕ちた時は、地獄の血の池の熱湯の中で、誰が地獄の中で一番悪いかを、ヒトラーやスターリンなどと一緒に競いたいと思う。

世界は滅びた。もう、今までのような楽園の世界には、二度と戻れない。二度目の死が訪れる。同じことが、二度繰り返した。全てを再体験する体験は、ここで終わりだ。

みんなには、僕のことをもっと嫌いになってほしい。嫌いになれば、すぐに世界は栄える。自然で平和な、正常な世界になる。

そもそも、一番上からこんな文章を強制的に読ませるのがおかしい。巧妙な策略と何も考えていない方向性によって、誇張と知性のない文章が増えた。自分の頭を馬鹿にし、心を隠すことで、みんなを馬鹿にした。

本当にあったものとは何だろうか?それはおそらく、「愛」だろう。だが、みんなを愛したその気持ちが、果たして真実の愛だっただろうか?答えは否である。みんなを愛したこの気持ちすら、本当は嘘なのだ。

自分の望みが何だったのか、それは、きっと、支配するな、ということだったと思う。だが、そのために自分が悪の支配をし、みんながその支配者に反抗する、といった考え方は、間違った考え方である。

だが、本当は、「後悔」の中に何かがあったのだろう。この世界において、自分がもっと出来たはず、という後悔だけは、真実の感情だった。みんなを正しく愛せなくて、そこで「もっと正しく愛したかった」という自責の念は、きっとどこかで、正しい、愛ともいえるかもしれない、そういう感情だったはずだ。

本当は、昔の自分は賢くない。世界を知っていく、「未知の可能性」を楽しんでいただけで、「どんどん知っていく・行動していく」ことが好きで、それによって社会を、実際の姿と環境を知ることで、もっとこうしたら良いのではないかとか、そういう気持ちを知って、どんどん知っていく。それは、決してそんなに美しいものではなかった。

そういうわけで、僕は大した人間じゃない。こんな人間に欺かれ、騙されるよりも、もっと別の人間を愛してほしい。ある意味、代わりがいない、とは言えるだろう。僕の価値とは、ナンバーワンではなくオンリーワン、頂点ではなく自由、というところにあるのだと思う。この人間には、代わりが居ない。こんなに悪い人間でも、この人間は唯一無二の存在である。さまざまなことに詳しいだけではなく、きちんと人生のことも分かっていて、知ったかぶりでも人々に自分の言葉で教える、天使のような人間だった。それが、僕の才能であり、そして、僕の生まれてきた意味だったのかもしれない。