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=2017-03-14=

今日は、作業所で、Photoshopを使った写真の補正をすることが決まった。

だが、僕は、少し自信を失ったところがある。

僕には、デザインは向いていないような気がする。みんなはデザインが上手いのに、自分は上手くない。

それを言うと、作業所の指導員の方は、まだ始めたばかりだから、と言っていた。

ある意味、向上心があるのは良いことだと言っていた。

だが、僕は文章を書くのが好きだ。文章を書いていた方が良いような気がする。

それを言うと、指導員の方は、文章を書くためにも、パソコンのスキルはあった方が良いと言う。

だが、僕は、文章を書いていると辛いから、もう書きたくないのだ、と言った。

それで、どっちを向いて良いか、悩んでいるのが僕だ。

今日は、そろそろ完全に精神が治った。「いちばんやさしいPHPの教本」と言う本を買った。

これを見ていると、パソコンによって、精神の言葉の部分がすぐに治った。

この本は、すぐに読める。まだ半分よりちょっと少ないぐらいしか読んでいないが、簡単な本なので良い。

僕は、昔は、制度、本質、手段、実現性、発想、慈愛、理想を、順番に分かっただけだ。

パソコンを勉強していると、そういうものがすぐに分かる。

昔は、環境や場所、地域の可能性を考えていた。

「それはそう出来る可能性がある」ことから、地域を変えられると思った。

あとは、心理学のようなことを分かっていた。感情がどのようになるかを、実体験で分かっていた。

パソコンをやっていると、もうそれ以上何も分からなくなる。パソコンなんかしない方が良い。

だが、このPHPの本なら、自分にも出来る。

パソコンをやっていると、馬鹿が治る。何故か、認知症や知的障害が治る。認知症や知的障害は、若ければ、治る人間が多い。

自分は、辛いセックスをするから悪くなっている。もっと、愛のあるセックスをすれば良い。

みんなに普通のことを教える。僕は、「普通」が分かっていない。普通が分かると、すぐに世界中が理性を取り戻す。

パソコンは、この本なら出来る。むしろ、プログラミング初心者でもこのPHPの本なら出来るのが良く分かる。

Ruby on Railsも良いのだが、何もしなくても動くせいで、技術が身につかない。賢すぎる。

僕は、Windowsが嫌いだ。なぜなら、遅い。起動はWindowsの方が速いように見えて、実質的な使う前の「操作不能な準備時間」はWindowsの方が長い。常に起動しておかないと、使えない。だが、色んなフリーソフトが使える、と言う意味で、僕はまだWindowsを手放すことは出来ない。出来ることなら、みんなにもLinuxを使ってほしいと思っている。

今日も書いたが、そろそろ本当に去らなければならない。自分も治らないし、この世界も何も出来ないままだ。賢くならない。

むしろ、自分が居ると、みんなは昔の自分になってしまう。RADWIMPSが言うところの、「前前前世」だ。昔の自分なんか、僕も嫌いだ。

アメリカは昔のままだ。最悪のギャングのままだ。もっと日本に良い国になってほしい。そのためには、去る必要がある。

第一次・第二次世界大戦の本当の恐怖は、ヒトラーやスターリンではなく、殺戮兵器の登場だ。機関銃や戦闘機など、物凄くたくさんの人間を簡単に殺せるようになった。だから、ヒトラーのような発想になってしまう。人間性の欠落した兵器の登場の時代だ。ある意味、何の意味の無い世界になった。たとえそれ以前の時代が戦争の時代だったとしても、今から見ればおこちゃまのような戦争だ。世界大戦以後、戦争は絶対に起こしてはならないものになった。最近の右翼は、そこが分かっていない。パソコン以前の精神性がいくら優れていても、そこに戻ることは出来ない。戦争はしてはならないのだ。

近現代は良い時代だが、必ずしも良いことばかりではなく、悪いことの方がはるかに多い。特に、大航海時代以後、ヨーロッパ人はどんどん海外を自国の領土にし、植民地に変えていった。わずかな期間でアフリカのほとんどの国がヨーロッパの大国の領土となった。そして、そのまま社会主義やファシズムが生まれ、凶悪な独裁者が虐殺するようになったのは、軍事的な大量殺傷の技術がどんどん発明されたからだ。それはそのまま、原爆などの核開発となり、ソ連とアメリカの冷戦となった。ここから先、道なき彼方に、どのように生きれば良いのだろうか?僕が提案するのは、「もっと正しい形での合意の方法」を取ることだ。GPLが自由なままコードをオープンにして公開を義務付けるように、もっと正しい形で、社会が上手く協調出来るようになること。そのためには、自然と調和することだ。自然と調和しない技術は、全部要らない。戦争もしてはならない。自由でも平等でもなく、新しい形の合意と、自然に調和した協調を生まなければ、いけないのだ。どうでも良いが、昔はコンピュータのことはある意味で世界一分かっていた。GPLのような考え方を、関係とIT技術の知識から、自由な成立的に分かる。そういう、「自由が生み出す社会形成」のようなことを、プロセスとしていつも書いていた。そういう社会論だった。それはどうでも良いとして、資本主義を破壊するために、金を無くせば良いわけではない。金よりももっと良い社会の形成と関係性の技術媒体を作らなければならない。資本主義は帝国主義になるかと言うと、必ずしもそうではない。だが、搾取は外国の利権による奴隷化を生む。ただし、最近はグローバル化によって、左翼と右翼の立場が逆転している。何を本当のことだと言って良いのか分からないのは、僕にも責任がある。

むしろ、正しい国は中国だ。僕は、中国の汚職やソ連の帝国主義の問題は、自由圏の人間だから「社会主義が汚職を生み帝国主義になる」と言えるのであって、本来は社会主義の思想とは別個に考えるべきだ。自由な国であっても、汚職の時代もあれば、健全な時代もあり、帝国主義な時代もあれば、民主主義の時代もある。ある意味では、あの時代そのものが、虐殺的な発展の時代なのだ。それを言うと、むしろ、今の平和な時代に社会主義をやれば、違った結果になるはずだと思う。それは、すでに、社会主義と言う呪縛からは外れたものになる。昔から、僕はそういう呪縛を除外して考えるのが得意だ。この世界は矛盾しないし、学問の専門は基礎を共有することで横断出来ると思う。

僕が思うに、プログラミングの新しいパラダイムは、「加筆と編集をしやすくすること」だと思う。昔から、僕はRubyやC#のブロックやデリゲートのように、新しく処理を簡単に既存の処理に加えることを考える。Rubyの本質はそこだと思う。だが、僕が思うに、完全にあらゆることをあとで新しく書き直すことが出来るような、そういう言語を作るべきだと思う。ある意味、HTMLをCSSでデザインするように、Rubyを何らかの言語を組み合わせて加筆・編集するような、そういう「再編集」のフレームワークがあっても良い。それは、ただマクロ的に書き換えれば良いわけではなく、ブロックのような新しい記法を作るしかない。

ある意味、継承やカプセル化を使って、C++やJavaでもそれは実現出来るし、そもそも共有ライブラリを使えば良い、と言うことになるだろう。だが、それは僕は、「新しい機能の中で古い機能を再利用する」と言うことであって、似たように見えるが、「全てを書き直す」と言うこととは違うのだ。やり方がスマートでない、と言っても良い。ある意味、GTK+のメニュー部分だけをあとで完全に書き直せるような、オープンソースの次の波になるような、そういう機能が必要なのだ。完全に全てのことを書き直して、統合的なソフトウェア集団にする。それは、プログラミング言語と言うより、もっと違う言語であると言えるかもしれない。

この言語の特徴は、全ての操作と処理を書き直せるせいで、オープンソースにする必要がない。商用ソフトウェアのまま、コードを非公開にしたままで、オープンソースと同じことが出来る。「Rewritable Source Software」と言う新しい概念だと言える。

絶体絶命だった。本当に美しい「愛の諦め」がそこにあった。

昔は、心で世界を支配するが、支配するのも解放するのも同じだから、やめた方が良い。

教育勅語を悪くない、と言っている右翼が多い。それは分かる。だが、それは一方的決めつけを批判し、実際のところを見たいのだと思う。それは、問題の本質が分かっていない。それなら、天皇を尊重する憲法や、第二次世界大戦で大量に人が死んでいったのも、「ある意味それはそれ自体は悪くなく、みんなの思っている思い込みに過ぎない」ことになる。それは、間違っているだろう。ある意味、ドイツ人が最近悪くないことになっているのと似ている。思い込みを否定することは、差別を否定することだが、僕は、逆に差別や思い込みを否定し過ぎるせいで、悪になることもあると思う。そういうわけで、教育勅語は、それが天皇によって言われた言葉であり、現代の法律から考えて、良くないものなのだ。思い込みを否定すればするほど、思い込みに近くなる。信じるものは、良く考えて信じた方が良い。

それこそ、教育勅語が良いなら、アンパンマンの歌でも暗唱させれば良い。昔の時代を、本来あるべき正しい世界とは言うが、先ほど書いたように、近現代の戦争能力の拡充によって、昔の戦争とは全く違う、おかしな大量殺戮の戦争をしているのが、第一次・第二次世界大戦だ。教育勅語は悪くなくても、この国は最悪だ。だから、止めた方が良い。戦争が悪いのではない。近現代のやり方が完全に間違っているのだ。

ただ、僕はアメリカやオランダの極右は、そんなに悪くないと思う。イスラム教徒なんか、僕も嫌いだ。オランダの極右の意見にも、良い点はある。自分たち国民が自国のボスになって、自立的な雇用をし、移民を排除し、外国に金を渡らなくさせるのは、僕は良いと思う。それから、ナチズムの二の舞には、僕はならないと思う。あの時代が、大量殺戮兵器の時代だからああいう風に軍事力の拡張と劣等民族の大量虐殺を生んだのであって、今人種差別をしても、ヒトラーのような滅びた国にはならないだろう。ただ、僕は雇用は良いと思うのだが、自由は悪いと思う。自由を無くした上で、全員を公平に雇用すべきだし、雇用しただけではなく、労働を楽にするべきだし、悪いものは要らない。悪い人間どころか、悪い機械やおかしな食べ物が多い。そういうものを一掃しなければならない。

昔は、コンピュータの中の社会と、現実の想像力を交互に体験して、環境と心、社会と人生、経験と客観的事実を重ね合わせ、照らし合わせ、成り立たせて分かっていた。自分の想像力だけでは限界があることも、コンピュータやインターネットによって助けられてきた。そういうわけで、この世界の全ての体験が分かっていた。当然、そこでは何をどのようにすべきか、と言うことは完全に、完璧に分かっていた。

存在しているものだけではなく、可能性を見なさい。それがそうだった時、それぞれの関係がどうなるか、可能性から関係と結果を考えなさい。それぞれがどうなるか、考えなさい。成り立たせて考えることで、可能性の中でそれぞれがどのようになるか、そしてその結果何が分かるのかが分かってくる。それ以上は、自由なことを知るだけになるだろう。知ると言うプロセスの中で、全てが具体化される。具体的に、そのことを具現化する際のプロセスと心構えのようなことが、必然的かつ自然に分かってくる。そして、社会が絶対に良くするための、正しい条項のようなものが発見出来るだろう。同時に、仏教で教えられている内容も分かってくる。

あとは、昔から掲示板やWikiを良く見る。ある意味、可能性を把握して考えていると、それぞれが何が出来るのか、何をし得るのかが分かる。そこから、関係的なモデルを作ることが出来る。そして、経験する中で、どのように考えたら良いのか、考え方が見えてくる。そこから、帰納的な正しい考え方が見えてくる。もちろん、たくさんの社会と思考の実例が必要だ。昔の自分は、これでもかと言うぐらい、思考と経験が多かった。そして、慎重になる反面、一度分かったことは恒久的に全て覚えていた。今の僕が負ける点だ。

ネットでスラムのような経験をしていたが、それで、この社会のことが、全て経験的に解決出来るような、救世主のような人間になった。キリストと言うより、オバマに近い。自分の経験だけで、この世界の全てを救える人間だった。そこには、「誰も悪くないと言う愛」が存在した。悪くはないのだが、無思慮なせいで格差が生まれる。金持ちが悪いわけでは、決してない。悪いのは、無思慮や無配慮なのだ。それを、自分から実践して愛するべき、救うべきだと考えた。そういう風に、ネットを経験していた。だが、理想が理想であるせいで、自分のやっていることがあまりに間違っているように見えた。そういう葛藤をした人間だった。

経験豊富で発想力があったせいで、誰のことも自分のように、同じように分かる。誰をも理解出来る人間で、そして、自分なりの正しい解決策が分かる人間だった。自由な中で、絶対に解決出来るのを分かっていた。その自由だけを信じていた。人々の問題は、絶対に自由で解決出来ると思っていた。